BLOG & INFO

短編小説

第2話 健康診断では異常なし 【2/10】

「異常なし」と「健康」は本当に同じなのか

朝五時。

佐伯誠一は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。

眠れた時間は六時間ほど。

しかし、体は鉛のように重かった。

布団から起き上がるまで数分かかる。

鏡を見る。

目の下のクマは昨日より濃く見えた。

洗面所で冷たい水を顔にかけても、頭の中の霧は晴れない。

「今日も長い一日だな……。」

そうつぶやいてスーツに袖を通した。


会社へ向かう車中。

運転手がバックミラー越しに尋ねた。

「社長、お疲れではありませんか?」

「いや、大丈夫だよ。」

反射的にそう答えた。

その言葉は、最近一番口にしている言葉かもしれない。

しかし、本当に大丈夫なら、毎朝こんなにも体が重いはずがない。


午前中は取引先との打ち合わせ。

午後は役員会議。

夕方からオンライン講演。

一つひとつは問題なくこなしている。

だが以前とは決定的に違うことがあった。

集中力が続かない。

資料を読んでいても内容が頭に入らない。

社員の説明を聞いていても、途中で思考が途切れる。

「社長?」

名前を呼ばれて我に返ることが増えていた。


その日の昼休み。

役員の一人が話しかけてきた。

「社長、最近お忙しそうですね。」

「忙しいのはいつものことだ。」

「そうですが……少し休まれた方が。」

「会社は休まない。」

自然と口調が強くなった。

役員はそれ以上何も言わなかった。

しかし、その表情には心配がにじんでいた。


数日後。

佐伯は健康診断を受けた総合病院へ向かった。

どうしても納得がいかなかったのだ。

診察室で医師がカルテを見ながら話し始めた。

「佐伯さん、検査結果をもう一度確認しましたが、やはり大きな異常はありません。」

「でも、疲れが取れないんです。」

「睡眠時間は?」

「六時間くらいです。」

「食事は?」

「朝はコーヒーだけの日もあります。」

「運動は?」

「ほとんどしていません。」

医師は少し笑って言った。

「それなら、体が疲れていても不思議ではありません。」

佐伯は少し身を乗り出した。

「つまり病気ではない?」

「病気とは言えません。」

「でも健康でもない気がする。」

医師は静かにうなずいた。

「そこが難しいところなんです。」


医師は紙に一本の線を書いた。

左には「病気」。

右には「健康」。

そして、その真ん中に丸を書いた。

「多くの方は、この丸の状態なんです。」

「どういう意味ですか?」

「検査では異常がない。しかし本来の元気さもない。」

佐伯は初めて腑に落ちた気がした。

「つまり私は……。」

「病気ではありません。しかし、身体が本来持っている力が十分発揮できていない可能性はあります。」

「そんな状態があるんですね。」

「あります。特に責任の重い仕事をされている方ほど少なくありません。」


帰り道。

病院のロビーに置かれた健康雑誌が目に入った。

そこには大きくこう書かれていた。

『人生100年時代。健康寿命を延ばす。』

健康寿命。

聞いたことはあった。

しかし、それが自分に関係あるとは考えたことがなかった。

寿命は何歳まで生きるか。

健康寿命は、自分らしく元気に生活できる期間。

数字は似ていても意味はまったく違う。

「生きること」と「元気に生きること」は別なのだ。


その夜、自宅で食事をしていると妻が言った。

「最近、食べる量が減ったわね。」

「そうか?」

「昔はご飯をおかわりしていたじゃない。」

「年齢かな。」

「何でも年齢のせいにしないで。」

妻は少し笑いながら続けた。

「昔は休日になると庭仕事をしたり、孫と公園へ行ったりしていたでしょう。」

そう言われて思い返す。

確かに最近は休日になると、一日中ソファで横になっていることが増えた。

疲れているから休んでいるはずなのに、休んでも疲れが抜けない。

そんな日々が続いていた。


翌週。

大学時代の友人・高橋から一本の電話があった。

「誠一、この前話した健康のことだけど。」

「覚えている。」

「もし興味があるなら、一緒に会ってほしい人がいる。」

「医者か?」

「いや。」

「スポーツトレーナー?」

「違う。」

高橋は少し間を置いて言った。

「昔から自然の健康法を研究している人だ。」

佐伯は思わず苦笑した。

「私はそういうものはあまり信じない。」

「そう思うだろうな。俺も最初はそうだった。」

「それで?」

「一度話だけでも聞いてみないか。」

「話を聞くだけなら。」

「十分だ。」

電話を切ったあとも、その言葉が頭に残った。

自然の健康法。

経営者として、投資の判断では必ず根拠を求めてきた。

だからこそ、健康についても科学的なデータや検査結果ばかりを信じてきた。

しかし、その検査結果は「異常なし」。

それでも自分は元気ではない。

では、健康とは何なのだろう。

数字だけでは測れないものがあるのではないか。


その夜、佐伯は机の上に健康診断の結果を広げた。

血圧、血糖値、コレステロール、肝機能、腎機能。

どの数値も基準範囲内。

「異常なし。」

その文字を見つめながら、小さくつぶやいた。

「この紙は、病気ではないことは教えてくれる。でも、どうすれば元気になれるかは教えてくれないんだな……。」

佐伯は診断結果を静かに閉じた。

そして、高橋に短いメッセージを送る。

『紹介してくれる人に、会ってみようと思う。』

その送信ボタンを押した瞬間、新しい扉が静かに開き始めていた。

病気を探すためではなく、自分本来の力を取り戻すための第一歩が。

──第3話「医師が教えてくれなかったこと」へ続く。


プライバシーポリシー / 特定商取引法に基づく表記 / 利用規約

Copyright © 2025 酒井 恒和 All Rights Reserved.

CLOSE