第1話 成功者の代償 【1/10】
壊れてからでは遅い──一流ほど健康投資を惜しまない理由
「社長、来月の講演ですが、もう200名を超えました。」
秘書の声を聞きながら、佐伯誠一は静かにうなずいた。
「そうか。ありがとう。」
それだけ答えると、デスクの上に積まれた書類へ目を戻した。
時計を見ると午後十時三十分。
社員はほとんど帰宅し、本社ビルのフロアには自分の部屋だけが明るく照らされていた。
今年で五十五歳。
地方の小さな会社を年商百億円規模まで育て上げた経営者として、経済誌にもたびたび取り上げられ、講演依頼も絶えない。
世間から見れば、誰もが羨む成功者だった。
しかし、その日も胸の奥には説明のつかない重さがあった。
「まだ終わらないのか……。」
小さくつぶやき、パソコンを閉じる。
立ち上がった瞬間、軽い立ちくらみがした。
以前なら一晩寝れば回復した疲れが、最近は何日経っても抜けない。
休日も頭の中は仕事のことでいっぱい。
眠りは浅く、夜中に何度も目が覚める。
朝は目覚まし時計より早く起きるが、爽快感とはほど遠い。
「歳のせいかな。」
そう思ってやり過ごしてきた。
だが、本当にそれだけなのだろうか。
翌朝。
会社へ向かう車の中で、信号待ちの時間にバックミラーを見る。
そこに映っていたのは、数年前より確実に老け込んだ自分だった。
頬は少しこけ、目の下には濃いクマ。
髪には白いものが増えている。
社員からは「いつもお元気ですね」と言われる。
取引先からも「社長はタフですね」と笑われる。
しかし、その言葉に素直にうなずけなくなっていた。
数日後、毎年受けている健康診断の日。
血液検査。
心電図。
胃カメラ。
胸部CT。
人間ドックのフルコースを受ける。
結果説明では医師が微笑みながら言った。
「佐伯さん、今年も特に異常はありません。年齢相応ですね。」
「そうですか。」
安心するはずの言葉だった。
だが、心は晴れなかった。
異常がないのなら、この疲れは何なのだろう。
帰宅すると妻が声を掛けた。
「結果はどうだった?」
「異常なしだそうだ。」
「それなら良かったじゃない。」
「……そうなんだけどな。」
その続きを口にすることはできなかった。
「異常なし」と「元気」は、必ずしも同じではない。
その違和感を、まだ言葉にできずにいた。
数週間後。
重要な商談中だった。
相手企業の社長が話している最中、ほんの数秒だけ意識が遠のいた。
「社長、大丈夫ですか?」
社員の声で我に返る。
「いや、大丈夫だ。」
そう答えたものの、自分でも驚いていた。
仕事中に集中力が途切れるなど、これまで一度もなかった。
商談を終え、応接室を出ると、秘書が心配そうに近づいてきた。
「最近、お疲れではありませんか?」
「そんなことはない。」
反射的に答えた。
経営者は弱音を見せない。
社員を不安にさせない。
それが自分の信条だった。
しかし、その日の帰宅後、一人書斎に座っていると、不安が静かに押し寄せてきた。
もし、自分が倒れたら。
社員は。
家族は。
会社は。
自分の代わりはいくらでもいると言われるかもしれない。
だが、経営判断だけは代わりが利かない。
責任の重さを知る者ほど、自分の健康を後回しにしてしまう。
翌週末。
大学時代からの親友であり、今は会社を引退している高橋と久しぶりに会った。
「誠一、お前、顔色悪いぞ。」
開口一番だった。
「そんなことない。」
「いや、昔のお前を知っているから分かる。」
高橋は真剣な表情で続けた。
「会社の数字ばかり見て、自分の数字は見ていないんじゃないか?」
「健康診断では異常なしだった。」
「健康診断は病気を探すものだ。元気かどうかを教えてくれるものじゃない。」
その言葉が胸に刺さった。
高橋は続ける。
「俺も引退する少し前、お前と同じだった。異常なし。でも疲れは抜けない。眠れない。風邪をひきやすい。」
「それで?」
「考え方を変えた。」
「どういうことだ?」
「病気になってから治すんじゃない。病気になりにくい身体を育てることを始めたんだ。」
佐伯は黙ってコーヒーを口に運んだ。
「健康ってな。」
高橋は窓の外を見ながら言った。
「壊れて初めて価値が分かるものなんだ。」
帰宅後。
佐伯は一冊のノートを開いた。
会社の経営理念。
事業計画。
資産管理。
投資計画。
未来への戦略。
そこには会社を守るための計画が何ページにもわたって書かれていた。
しかし、自分自身を守るための計画は一行もなかった。
会社には設備投資をする。
社員には教育投資をする。
新規事業には資金を投じる。
それなのに、自分の身体だけは「まだ大丈夫」と言い続けてきた。
その瞬間、ふと気づいた。
会社にとって最も重要な資産は、工場でも、現金でも、建物でもない。
意思決定を下す自分自身なのではないか、と。
健康を失えば、どれほど優れた経営戦略も実行できない。
社員を守ることも、家族との時間を楽しむこともできなくなる。
成功を積み重ねることばかり考えてきた。
だが、その成功を支える土台については、真剣に考えたことがなかった。
窓の外では夜明け前の静けさが広がっている。
佐伯はゆっくりとノートを閉じた。
「健康も、投資なのかもしれない……。」
その一言は、自分自身に向けた問いだった。
まだ答えは見つからない。
しかし、この夜を境に、彼はこれまでとは違う視点で「健康」と向き合うことになる。
それは、単なる疲労回復を求める旅ではなかった。
仕事を続けるためでも、老化に抗うためでもない。
人生そのものを支える土台を見つめ直す旅の始まりだった。
──第2話「健康診断では異常なし」へ続く。
第1話 成功者の代償
壊れてからでは遅い──一流ほど健康投資を惜しまない理由
「社長、来月の講演ですが、もう200名を超えました。」
秘書の声を聞きながら、佐伯誠一は静かにうなずいた。
「そうか。ありがとう。」
それだけ答えると、デスクの上に積まれた書類へ目を戻した。
時計を見ると午後十時三十分。
社員はほとんど帰宅し、本社ビルのフロアには自分の部屋だけが明るく照らされていた。
今年で五十五歳。
地方の小さな会社を年商百億円規模まで育て上げた経営者として、経済誌にもたびたび取り上げられ、講演依頼も絶えない。
世間から見れば、誰もが羨む成功者だった。
しかし、その日も胸の奥には説明のつかない重さがあった。
「まだ終わらないのか……。」
小さくつぶやき、パソコンを閉じる。
立ち上がった瞬間、軽い立ちくらみがした。
以前なら一晩寝れば回復した疲れが、最近は何日経っても抜けない。
休日も頭の中は仕事のことでいっぱい。
眠りは浅く、夜中に何度も目が覚める。
朝は目覚まし時計より早く起きるが、爽快感とはほど遠い。
「歳のせいかな。」
そう思ってやり過ごしてきた。
だが、本当にそれだけなのだろうか。
翌朝。
会社へ向かう車の中で、信号待ちの時間にバックミラーを見る。
そこに映っていたのは、数年前より確実に老け込んだ自分だった。
頬は少しこけ、目の下には濃いクマ。
髪には白いものが増えている。
社員からは「いつもお元気ですね」と言われる。
取引先からも「社長はタフですね」と笑われる。
しかし、その言葉に素直にうなずけなくなっていた。
数日後、毎年受けている健康診断の日。
血液検査。
心電図。
胃カメラ。
胸部CT。
人間ドックのフルコースを受ける。
結果説明では医師が微笑みながら言った。
「佐伯さん、今年も特に異常はありません。年齢相応ですね。」
「そうですか。」
安心するはずの言葉だった。
だが、心は晴れなかった。
異常がないのなら、この疲れは何なのだろう。
帰宅すると妻が声を掛けた。
「結果はどうだった?」
「異常なしだそうだ。」
「それなら良かったじゃない。」
「……そうなんだけどな。」
その続きを口にすることはできなかった。
「異常なし」と「元気」は、必ずしも同じではない。
その違和感を、まだ言葉にできずにいた。
数週間後。
重要な商談中だった。
相手企業の社長が話している最中、ほんの数秒だけ意識が遠のいた。
「社長、大丈夫ですか?」
社員の声で我に返る。
「いや、大丈夫だ。」
そう答えたものの、自分でも驚いていた。
仕事中に集中力が途切れるなど、これまで一度もなかった。
商談を終え、応接室を出ると、秘書が心配そうに近づいてきた。
「最近、お疲れではありませんか?」
「そんなことはない。」
反射的に答えた。
経営者は弱音を見せない。
社員を不安にさせない。
それが自分の信条だった。
しかし、その日の帰宅後、一人書斎に座っていると、不安が静かに押し寄せてきた。
もし、自分が倒れたら。
社員は。
家族は。
会社は。
自分の代わりはいくらでもいると言われるかもしれない。
だが、経営判断だけは代わりが利かない。
責任の重さを知る者ほど、自分の健康を後回しにしてしまう。
翌週末。
大学時代からの親友であり、今は会社を引退している高橋と久しぶりに会った。
「誠一、お前、顔色悪いぞ。」
開口一番だった。
「そんなことない。」
「いや、昔のお前を知っているから分かる。」
高橋は真剣な表情で続けた。
「会社の数字ばかり見て、自分の数字は見ていないんじゃないか?」
「健康診断では異常なしだった。」
「健康診断は病気を探すものだ。元気かどうかを教えてくれるものじゃない。」
その言葉が胸に刺さった。
高橋は続ける。
「俺も引退する少し前、お前と同じだった。異常なし。でも疲れは抜けない。眠れない。風邪をひきやすい。」
「それで?」
「考え方を変えた。」
「どういうことだ?」
「病気になってから治すんじゃない。病気になりにくい身体を育てることを始めたんだ。」
佐伯は黙ってコーヒーを口に運んだ。
「健康ってな。」
高橋は窓の外を見ながら言った。
「壊れて初めて価値が分かるものなんだ。」
帰宅後。
佐伯は一冊のノートを開いた。
会社の経営理念。
事業計画。
資産管理。
投資計画。
未来への戦略。
そこには会社を守るための計画が何ページにもわたって書かれていた。
しかし、自分自身を守るための計画は一行もなかった。
会社には設備投資をする。
社員には教育投資をする。
新規事業には資金を投じる。
それなのに、自分の身体だけは「まだ大丈夫」と言い続けてきた。
その瞬間、ふと気づいた。
会社にとって最も重要な資産は、工場でも、現金でも、建物でもない。
意思決定を下す自分自身なのではないか、と。
健康を失えば、どれほど優れた経営戦略も実行できない。
社員を守ることも、家族との時間を楽しむこともできなくなる。
成功を積み重ねることばかり考えてきた。
だが、その成功を支える土台については、真剣に考えたことがなかった。
窓の外では夜明け前の静けさが広がっている。
佐伯はゆっくりとノートを閉じた。
「健康も、投資なのかもしれない……。」
その一言は、自分自身に向けた問いだった。
まだ答えは見つからない。
しかし、この夜を境に、彼はこれまでとは違う視点で「健康」と向き合うことになる。
それは、単なる疲労回復を求める旅ではなかった。
仕事を続けるためでも、老化に抗うためでもない。
人生そのものを支える土台を見つめ直す旅の始まりだった。
──第2話「健康診断では異常なし」へ続く。

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