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連載小説【健やかに生きるということ】(3/50)

第3話 健康診断の数字が教えてくれたこと

1.机の上に残された数字

月曜日の朝、佐伯誠は会社のデスクで、いつもより早く仕事を始めていた。

窓の外には、出勤する人々の姿が見える。フロアにはまだ人が少なく、キーボードをたたく音だけが静かに響いていた。

誠はパソコンを開き、先週から持ち越していた資料の確認に取りかかった。

売上の推移、経費の見通し、部門ごとの実績。数字を一つずつ確認していく。誤差があれば原因を探し、前年との比較を行い、今後の見通しを立てる。

数字は正直だ。

少なくとも、仕事ではそう考えてきた。

数字を見れば、何が起きているのか、どこに問題があるのかを考える手がかりが得られる。もちろん、数字だけでは分からない事情もある。それでも、事実を確かめる出発点にはなる。

「部長、この数字なんですが、少し気になるところがありまして」

部下が資料を持ってきた。

誠は画面をのぞき込み、二つの表を見比べた。

「ここの増減は、何が原因?」

「まだ確認できていません。前月と比べて変化が大きいので、調べているところです」

「そうか。数字だけで判断せず、背景も確認しよう。原因が分かれば、次に何をするべきかも見えてくるから」

部下はうなずき、資料を持って戻っていった。

誠は、もう一度画面に目を向けた。

数字を見て、原因を調べ、必要な対応を考える。

それは、長年の仕事を通じて身につけてきた基本だった。

ところが、自分自身のことになると、同じようにはできていなかった。

机の引き出しには、先週開いた健康診断の結果が入っている。

気になる数値があった。

それなのに、詳しく調べることもせず、医師への相談も先延ばしにしていた。

仕事なら、数字の変化を見過ごすことはない。

なぜ、自分の身体のことになると、そうはいかないのだろう。

誠は引き出しを開け、健康診断の結果を取り出した。

紙に並ぶ検査項目と数字を見つめながら、彼は小さく息を吐いた。

今度こそ、きちんと向き合わなければならない。

そう思っていた。

2.見たくなかった判定欄

昼休み、誠は社員食堂へ向かうのをやめ、デスクで弁当を食べることにした。

食事を終えると、健康診断の結果をもう一度広げた。

昨年の結果も保管してあったので、二枚を並べてみる。

以前より数値が変わっている項目があった。判定欄にも、以前とは違う記載がある。

誠は眉を寄せた。

「去年は、こんな数字じゃなかったはずだが……」

年齢を重ねれば、多少の変化はあるだろう。

仕事が忙しく、運動する時間も減っていた。会食が続くこともあれば、帰宅が遅くなって夕食の時間が不規則になることもある。

思い当たることは、いくつもあった。

それでも、今すぐ大きな問題が起きているわけではない。

身体が動かなくなったわけでもないし、仕事に支障が出ているわけでもない。

「少し生活を見直せば、何とかなるだろう」

誠はそう考えた。

だが、次の瞬間、以前の自分の言葉を思い出した。

先週、部下の資料を確認していたとき、自分は何と言っただろう。

数字だけで判断せず、背景も確認しよう。

そう言ったばかりだった。

健康診断の数字にも、背景があるはずだ。

食事や運動、睡眠、年齢、これまでの経過。さまざまな要素が関係しているかもしれない。

そして、その数字が何を意味するのかは、自分一人で決められることではない。

誠は判定欄を見た。

そこには、必要な対応を促す記載があった。

詳しい意味を確認する必要がある。

それなのに、自分は都合のよい解釈を探していたのではないか。

誠は結果をたたみ、机の上に置いた。

午後の会議まで、あと十分だった。

彼は資料を鞄にしまい、立ち上がった。

けれど、いつもならすぐに切り替えられる仕事のことが、その日はなかなか頭に入ってこなかった。

3.同僚の一言

午後の打ち合わせが終わったあと、誠は廊下で同じ部署の田中と顔を合わせた。

田中は誠より二つ年上で、数年前から管理職を務めている。仕事に対する考え方が似ていて、若い頃から何かと相談し合ってきた相手だった。

「佐伯、ちょっと顔色が冴えないな。疲れているのか?」

「そう見えるか?」

「最近、忙しそうだからな。俺も人のことは言えないけど」

田中は苦笑した。

二人は自動販売機の前で立ち止まり、缶コーヒーを買った。

「そういえば、健康診断の結果はどうだった?」

田中が何気なく尋ねた。

誠は一瞬、返事に詰まった。

「いや、まだ詳しく見ていないんだ」

「そうなのか。俺は先月、医者に相談してきたよ」

「何かあったのか?」

「いや、すぐにどうこうという話じゃない。ただ、検査結果を見て、自分で勝手に判断するのも違うと思ってね。医者に聞いて、これから何を気をつければいいか整理してきた」

田中は缶コーヒーを一口飲んだ。

「仕事なら、分からない数字があったら調べるだろう。自分の身体のことも、同じじゃないかと思ってさ」

誠は黙っていた。

自分が考えていたことと、まったく同じだった。

「それで、何か変わったのか?」

「劇的に何かが変わったわけじゃないよ。ただ、何を確認すべきか分かった。生活習慣についても、いきなり全部変えるんじゃなくて、できるところから見直してみようと思っている」

田中は笑った。

「俺たちも、若い頃と同じようにはいかないからな」

「そうだな」

誠も笑ったが、心の中では別のことを考えていた。

若い頃と同じではない。

頭では分かっていた。

しかし、身体のことについては、認めたくない気持ちもあったのだろう。

まだ働ける。まだ責任を果たせる。まだ家族を支えられる。

そう考えることは、誠にとって自信の源でもあった。

だからこそ、自分の身体に変化が起きているかもしれないと認めることに、抵抗があったのかもしれない。

田中と別れたあと、誠は健康診断の結果を鞄から取り出した。

数字は何も変わっていない。

変わったのは、それを見る自分の気持ちだった。

4.医師に聞くということ

翌日の午後、誠は会社に休暇を申請し、近所の医療機関を受診した。

予約を取る際には、少し迷いもあった。

忙しい時期に休みを取っていいのだろうか。部下に仕事を任せて問題はないだろうか。

それでも、田中の言葉が背中を押した。

分からないことを、そのままにしない。

それは仕事でも、自分の身体についても、同じことだ。

診察室で、誠は健康診断の結果を医師に渡した。

医師は書類に目を通しながら、いくつか質問をした。

普段の食事はどうか。運動する習慣はあるか。睡眠時間はどれくらいか。以前に同じような指摘を受けたことはあるか。

誠は一つずつ答えた。

仕事が忙しい日は帰宅が遅くなること。夕食の時間が不規則になること。休日は家で過ごすことが多く、意識して身体を動かす機会が少ないこと。

話しているうちに、自分の生活が思っていた以上に偏っていたことに気づいた。

医師は検査結果を指し示しながら、落ち着いた口調で説明した。

「この数値だけを見て、すぐに何かを断定することはできません。これまでの経過や、ほかの検査結果、生活習慣なども含めて判断する必要があります」

誠はうなずいた。

「では、今の段階で、何をすればいいのでしょうか」

「まずは、今回の結果をきちんと評価することです。必要に応じて追加の検査も考えます。そのうえで、食事や運動など、改善できるところを一緒に整理していきましょう」

医師は、検査結果に記された判定の意味と、今後確認すべき点を説明してくれた。

誠が気にしていた項目についても、自己判断で放置せず、指示された時期に再検査や追加の確認を受ける必要があることが分かった。

「分かりました。仕事が忙しいからといって、後回しにしてはいけませんね」

誠が言うと、医師は穏やかに答えた。

「忙しい方ほど、健康のことを後回しにしがちです。でも、仕事を続けていくためにも、ご自身の状態を知っておくことは大切ですよ」

その言葉に、誠は深くうなずいた。

診察室を出たとき、身体の不安がすべて消えたわけではなかった。

検査結果が急に変わったわけでもない。

これから確認しなければならないことも残っている。

それでも、何をすればよいのかが少し見えてきた。

分からないことを恐れて目を背けるより、確かめて、一つずつ対応する。

そのほうが、ずっと前向きな方法なのだ。

5.家族に話す

その夜、誠はいつもより早く帰宅した。

食卓には、美紀が用意した野菜の煮物と焼き魚が並んでいた。

「今日は早かったのね」

「ああ。実は、病院へ行ってきたんだ」

美紀は箸を置いた。

「健康診断のこと?」

「そう。結果を見ても、自分ではよく分からなかったから、医師に相談してきた」

誠は、診察で説明されたことを順番に話した。

すぐに何かが決まったわけではないこと。追加の確認が必要な項目があること。これから生活習慣も見直していくこと。

美紀は、黙って聞いていた。

「そうだったのね。行ってくれてよかったわ」

その言葉を聞き、誠は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。

「心配をかけたかな」

「心配はするわよ。でも、何も言わずに一人で抱え込まれるほうが、もっと心配」

誠は返事をせず、妻の顔を見た。

美紀は、いつも誠の帰りを待っていた。仕事が忙しいときには食事を取り置き、体調が悪そうなときにはさりげなく声をかけてくれた。

それなのに誠は、仕事の話はしても、自分の不安を話すことはほとんどなかった。

弱音を吐く必要はない。

自分で何とかしなければならない。

そんな考えが、長い間、自分を支えてきた。

しかし、すべてを一人で抱え込むことが、必ずしも責任ある行動とは限らない。

家族に話すことも、自分の状態を理解してもらうことも、大切なのだ。

「これから、少し生活を見直そうと思う」

誠が言うと、美紀は微笑んだ。

「一緒に考えましょう。無理なく続けられることからね」

「そうだな」

二人は、翌日の朝食のことや、週末に何をするかについて話し始めた。

大きな約束をしたわけではない。

けれど、誠は、自分の健康について妻と一緒に考える時間を持てたことが、うれしかった。

6.数字の向こうにあるもの

翌朝、誠はいつもより少し早く起きた。

朝食を取りながら、昨日の診察を思い返していた。

これまで、健康診断の結果は、ただの紙だと思っていたのかもしれない。

毎年受けるもの。会社から渡されるもの。数値に問題がなければ安心し、気になる記載があれば、できれば見なかったことにしたいもの。

しかし、数字の向こうには、自分の毎日の暮らしがある。

何時に寝るのか。何を食べるのか。どれくらい身体を動かすのか。疲れを感じたとき、きちんと休めているのか。

そうした日々の積み重ねが、自分の状態と無関係であるはずがない。

もちろん、生活習慣だけですべてを説明できるわけではない。年齢や体質、さまざまな要因も関係する。

だからこそ、数字を見て自分だけで判断するのではなく、必要なときには専門家に相談し、適切な対応を考えることが大切なのだ。

誠は、食卓の上に置かれた健康診断の結果を見た。

昨日まで感じていた不安は、まだ残っている。

だが、その不安の中に、少しだけ違う気持ちが生まれていた。

自分の身体を知ることは、怖いことばかりではない。

知らなければ、何をすればよいのかも分からない。

知ることで、これからの行動を考えられる。

誠は結果をファイルにしまい、次の受診予定を手帳に記した。

仕事の予定と同じように、自分の健康についても、きちんと予定を立てる。

それは、彼にとって小さな変化だった。

けれど、その小さな変化が、これからの人生を考えるうえで大切な一歩になるような気がした。

7.これからも働き続けるために

会社に着くと、部下が誠のデスクへやってきた。

「部長、昨日お願いされた資料ですが、確認できました」

「ありがとう。あとで一緒に見よう」

誠は資料を受け取り、部下の顔を見た。

以前なら、その場ですぐに細かな修正を指示し、自分で確認を進めていたかもしれない。

しかし、今日は少し違った。

「まずは、君が気づいた点を説明してくれるか。自分で考えたことを聞いてみたい」

部下は少し驚いたあと、資料を開いて説明を始めた。

誠は、相手の話を最後まで聞いた。

自分がすべてを引き受けなくても、仕事は進められる。部下が成長する機会にもなる。

これまで自分が抱え込んできた仕事の中には、誰かに任せられるものもあったのではないか。

そう考えると、働き方にも見直せる部分がありそうだった。

もちろん、すぐにすべてを変えることはできない。

責任ある立場である以上、やるべきことはある。忙しい日もあれば、予定どおりにいかない日もある。

それでも、自分の身体を後回しにすることだけが、責任を果たす方法ではない。

長く働き続けるために、自分の状態を知る。

必要なときには医師に相談する。

仕事を抱え込みすぎず、周囲と協力する。

そして、家族と過ごす時間も大切にする。

誠は、窓の外に目を向けた。

朝の光が、ビルの壁を明るく照らしていた。

健康診断の数字は、彼に何かを断定してくれたわけではない。

ただ、自分の暮らしを見直すきっかけを与えてくれた。

五十五歳。

これから先、どんな変化が待っているのかは分からない。

けれど、分からないからこそ、確かめることができる。考えることができる。そして、一つずつ行動に移すことができる。

誠は手帳を開き、次の受診予定をもう一度確認した。

今度は、忘れないようにするためではなかった。

自分自身との約束を、きちんと守るためだった。


今回の気づき

健康診断の数値は、それだけで病気を決めつけるものではありません。過去の結果や生活習慣なども踏まえ、必要に応じて医師に相談することが大切です。自分の身体を知ることは、これからの暮らしを考える第一歩になります。

次回予告 第4話「妻の食卓、私の知らない時間」

医師への相談をきっかけに、誠は毎日の食事にも目を向け始めます。何気なく食べていた夕食には、妻・美紀の思いと工夫が隠されていました。食卓を通して、誠は家族との時間の意味を改めて考えることになります。


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