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小説

連載小説【健やかに生きるということ】(4/50)

第4話 妻の食卓、私の知らない時間

55歳から考える健康と食生活――毎日の食卓に隠れていた、妻の思い

1.いつもの夕食が、少し違って見えた

佐伯誠が健康診断の結果を医師に相談してから、三日が過ぎた。

会社では、いつもどおり仕事が待っていた。月末の報告書、取引先との打ち合わせ、部下からの相談。五十五歳になった今も、頼られることは多い。むしろ、経験を積んだ分だけ、判断を求められる場面は増えていた。

医師からは、検査の数値だけで一喜一憂せず、過去の結果や生活習慣も含めて考えるように言われた。誠はその言葉を忘れないようにしていたが、忙しさの中では、つい仕事が優先になってしまう。

その日の帰宅は、午後八時を回っていた。

玄関を開けると、台所から出汁の香りが漂ってきた。

「お帰りなさい。今日は少し遅かったね」

妻の美紀が、エプロン姿で顔を出した。

「ああ、ちょっと打ち合わせが長引いてね」

食卓には、焼き魚、ほうれん草のおひたし、豆腐とわかめの味噌汁、それに小さな鉢に盛られた煮物が並んでいた。

「おいしそうだな」

誠は上着を脱ぎながら言った。

「そう? いつもとあまり変わらないけど」

美紀は笑った。

確かに、特別な料理ではない。豪華な食事でもなければ、珍しい食材があるわけでもない。それでも、湯気の立つ味噌汁と、きれいに盛りつけられたおかずを見ていると、仕事で張り詰めていた気持ちが少し緩んだ。

誠は箸を手に取った。

「最近、健康診断の結果を気にしているせいかな。こういう食事が、前よりありがたく感じるよ」

「そうなの?」

美紀は、少し意外そうな顔をした。

「前は、食べられれば何でもいい、みたいなところがあったからな。昼も外食ばかりだし、夜は遅いし」

「そうね。あなたは昔から、食事より仕事を優先するところがあったものね」

責めるような口調ではなかった。

だからこそ、誠は返す言葉を見つけられなかった。

若い頃は、それでも何とかなった。夜遅くにラーメンを食べても、翌朝には普通に出勤できた。休日に仕事をしても、月曜日には気持ちを切り替えられた。

しかし、五十五歳になった今、同じ暮らしを続けていていいのだろうか。

そんな疑問が、少しずつ胸の中に根を下ろし始めていた。

2.妻は、いつから食卓を変えていたのか

食事を終え、誠が湯飲みを手にしていると、美紀が台所で食器を洗い始めた。

「そういえば、最近、煮物が増えた気がするな」

誠が何気なく言うと、美紀は手を止めた。

「気づいたの?」

「え?」

「少し前から、食事の内容を考えるようにしていたの。野菜を増やしたり、魚や豆腐を使ったり。味つけも、濃くなりすぎないように気をつけているのよ」

誠は驚いた。

「そんなに前から?」

「半年くらいかな」

半年。

誠にとっては、仕事の案件がいくつも動き、部下の異動や取引先との調整に追われていた時期だった。毎日食卓についてはいたが、料理がどのように変わったかまでは考えたことがなかった。

「どうして、何も言ってくれなかったんだ?」

美紀は、洗った皿を水切りかごに置いた。

「言っても、あなたは忙しかったでしょう。それに、健康のためだからって、急に食事を変えたら、窮屈に感じるかなと思って」

「そんなことはないよ」

そう答えかけて、誠は口を閉じた。

本当にそう言い切れるだろうか。

もし美紀が半年前に「食生活を見直してほしい」と言っていたら、自分はどうしただろう。仕事が忙しいことを理由に、後回しにしていたかもしれない。

「実はね、私も少し考えることがあったの」

美紀は向かいの椅子に腰を下ろした。

「友達と会うと、親の介護の話や、自分の体調の話が増えてきたのよ。若い頃は、多少無理をしても何とかなったけれど、これからはそうもいかないんだなって」

美紀は五十三歳になっていた。

誠は、自分の年齢については考えていたつもりだった。しかし、妻もまた同じように年齢を重ね、これからの暮らしを考えていることに、どれだけ気づいていただろう。

「私だって、ずっと元気でいたいもの。あなたにも、できるだけ長く元気でいてほしいしね」

美紀は照れくさそうに笑った。

「だから、まずは毎日の食事から、できることをしてみようと思ったの」

その言葉を聞いたとき、誠は胸の奥が少し痛んだ。

自分は家族のために働いていると思っていた。生活を支えるため、将来のため、家族が困らないように。その思いに嘘はない。

けれど、家族のために働くことに夢中になるあまり、家族と過ごす時間や、家族が日々何を考えているのかを、見落としていたのではないだろうか。

3.健康は、特別なことだけでつくられるのではない

「食事って、そんなに変わるものなのかな」

誠は、湯飲みを置いて尋ねた。

美紀は少し考えてから答えた。

「食事だけで、何でも解決するとは思っていないわ。でも、毎日食べるものだから、少しずつ意識する意味はあるんじゃない?」

「例えば?」

「野菜や魚、大豆製品を取り入れたり、いろいろなものを食べたり。何か一つだけを食べればいい、ということではないでしょう?」

誠はうなずいた。

健康診断の結果を見たときも、彼は数字の一つひとつに目を向けていた。数値を改善するために、何をすればいいのか。何を食べればいいのか。何を控えればいいのか。

すぐに答えを見つけようとしていたのかもしれない。

「健康にいいって聞くと、つい何か特別なものを探したくなるんだよな」

「分かるわ。私も、雑誌やテレビで紹介されている食材が気になることはあるもの」

美紀は笑った。

「でも、毎日の食事をおろそかにして、何か一つに頼るのは違う気がするの。まずは、普段の食事を大切にすることからじゃないかしら」

その言葉は、誠の中にすっと入ってきた。

健康のために何かを始めるというと、特別な運動や、高価な健康食品を思い浮かべがちだった。しかし、日々の食事、睡眠、身体を動かす時間。そうした暮らしの土台を見直すことも、同じくらい大切なのだろう。

もちろん、食事に気をつければ、すべての病気を防げるわけではない。健康診断の数値に問題があれば、医師に相談する必要もある。

それでも、自分の暮らしを振り返り、できることから変えていくことはできる。

「明日から、昼飯も少し考えてみるかな」

誠が言うと、美紀は目を丸くした。

「本当に?」

「そんなに驚かなくてもいいだろう」

「だって、あなた、昼はいつも『時間がないから』って言っていたじゃない」

「まあ、そうだけど……」

二人は顔を見合わせて笑った。

誠は、ふと気づいた。

自分は妻と、こんな話をいつからしなくなっていたのだろう。

仕事の予定や家の用事、親戚の連絡事項。必要な会話はしていても、お互いが何を考え、何を不安に感じ、これからどんな暮らしをしたいのか。そんな話をする時間は、いつの間にか少なくなっていた。

4.食卓の向こうにある、妻の時間

翌日の昼休み、誠はいつものように会社の近くの飲食店へ向かいかけた。

店の前には、日替わり定食の看板が出ていた。いつもなら迷わず入るところだったが、その日は少しだけ足を止めた。

昨夜、美紀が作ってくれた食卓を思い出した。

魚、野菜、豆腐。特別な料理ではなかったが、どれも丁寧に用意されていた。

誠は近くの店で、焼き魚と野菜のおかずがついた定食を選んだ。

食べ終えたあと、スマートフォンを取り出し、美紀にメッセージを送った。

〈昨日の食事、おいしかった。いつもありがとう。昼も少し考えて選んでみたよ〉

送信してから、少し照れくさくなった。

こんな短い言葉を送ることさえ、最近はほとんどなかった。

しばらくして、返信が届いた。

〈よかった。無理せず、できることからね〉

その短い文章を見て、誠は自然と笑みを浮かべた。

帰宅後、彼は美紀に、これまで知らなかったことをいくつか尋ねた。

買い物はいつしているのか。献立はどうやって考えているのか。食材を選ぶときに、何を大切にしているのか。

美紀は少し驚きながらも、楽しそうに話してくれた。

近所の店で旬の野菜を見つけること。魚の値段を比べながら、その日の献立を考えること。味つけが濃くなりすぎないように工夫すること。そして、ときには自分の食べたいものを優先すること。

「毎日、そんなことを考えていたんだな」

誠が言うと、美紀は笑った。

「毎日、完璧にできるわけじゃないわよ。疲れている日は、簡単なもので済ませることもあるしね」

「それでいいんじゃないか。無理をして続かなくなったら意味がないし」

口にしてから、誠はその言葉を自分自身にも向けていることに気づいた。

仕事も、健康も、家庭も、すべてを完璧にしようとすれば、いつか息切れする。大切なのは、無理なく続けられる形を探すことなのかもしれない。

「今度の休み、買い物に一緒に行ってみようか」

誠が提案すると、美紀は少し目を見開いた。

「あなたが? スーパーに?」

「何だよ。行ったらいけないのか」

「そんなことはないけど。じゃあ、旬の野菜を一緒に選んでみる?」

「いいね。何が旬なのか、全然分からないけど」

「それなら、教えてあげる」

美紀はうれしそうに笑った。

その笑顔を見ながら、誠は思った。

健康のために何かを変えるということは、単に食べるものを変えることだけではないのかもしれない。誰かと食卓を囲み、会話を交わし、相手の思いを知ること。それもまた、これからの暮らしを支える大切な時間なのだ。

5.これからの暮らしを、二人で考える

その夜、誠は書斎の机に置かれた健康診断の結果を、もう一度開いた。

数値を見て、すぐに答えが出るわけではない。これから医師と相談しながら、必要な確認を続けていくつもりだった。

そのうえで、毎日の生活についても、少しずつ見直していこうと思った。

昼食を適当に済ませないこと。遅い時間の食事が続かないよう、仕事の進め方を工夫すること。休日には仕事から離れる時間をつくること。そして、美紀と一緒に食卓を囲む時間を大切にすること。

どれも、劇的な変化ではない。

けれど、五十五歳の自分がこれからの人生を考えるうえで、こうした小さな積み重ねには意味があるはずだ。

「ねえ、誠さん」

居間から美紀の声がした。

「来週の休み、買い物に行く約束、忘れないでね」

「分かってるよ」

誠は書斎を出ながら答えた。

「それと、買い物のあと、お茶でも飲んで帰らない?」

「いいね。久しぶりに、ゆっくりしようか」

美紀はうなずいた。

その横顔を見ながら、誠はふと思った。

自分は妻のことを、よく知っているつもりでいた。長い年月を一緒に過ごし、同じ家で暮らしてきたのだから、分かっていることは多いはずだと。

しかし、知らない時間も、知らない思いも、まだたくさんあるのだろう。

それを知ろうとすることは、今からでも遅くない。

健康とは、検査の数値だけで測れるものではない。毎日の食事や生活習慣を見直すこと。そして、自分を支えてくれる人と、これからの暮らしを一緒に考えること。

誠は、食卓に置かれた二つの湯飲みを見つめた。

明日の朝も、いつものように仕事が始まるだろう。忙しさがなくなるわけではない。それでも、これまでとは少し違う目で、一日を始められる気がした。

妻が整えてくれた食卓。その向こうにあった、妻自身の時間と気持ち。

それに気づけたことが、誠にとって、今日の小さな一歩だった。


今回の気づき

健康的な食生活は、特別な食品だけに頼るのではなく、毎日の食事全体を見直すことから始まります。野菜や魚、大豆製品などを取り入れ、無理なく続けられる食習慣を考えること。そして、家族と食卓を囲み、互いの思いを分かち合う時間も大切にすること。日々の小さな積み重ねが、これからの暮らしを考えるきっかけになります。

次回予告 第5話「若い頃と同じではいられない」

昔なら平気だった仕事量、夜更かし、休日の過ごし方。少しずつ変わってきた自分の身体を前に、誠は「年齢のせい」と片づけてきた習慣を見直し始める。変化を受け入れることは、衰えを認めることなのだろうか。それとも、新しい生き方を見つけるための一歩なのだろうか。


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