連載小説【健やかに生きるということ】(7/50)
第7話 先輩が教えてくれた定年後の現実
仕事がなくなったとき、自分には何が残るのだろう
佐伯誠は、会社の窓から見える街並みを眺めながら、手元の書類に目を落とした。
午前九時から始まった会議は、予定を三十分も超えていた。部下から上がってきた資料の修正を指示し、取引先への連絡を済ませ、午後の打ち合わせに備える。いつもと変わらない一日だった。
ただ、最近はふとした瞬間に、仕事とは関係のないことを考えるようになっていた。
自分は、あと何年こうして働くのだろう。
定年まで、まだ数年ある。再雇用という選択肢もあるだろう。しかし、今のような役職と責任が、いつまでも続くわけではない。
会社では、経験を積み、責任ある立場を任されることが自分の価値につながっていた。部下に頼られ、上司から仕事を任される。それが誠の自信でもあった。
けれど、役職を離れたとき、自分には何が残るのだろう。
そんなことを考え始めた自分に、誠は少し戸惑っていた。
昼休み、スマートフォンを手に取ると、学生時代からの知人の近況が目に入った。定年後に旅行を楽しむ人、趣味の畑仕事を始めた人、地域の活動に参加する人。
どの人も、それぞれの暮らしを楽しんでいるように見えた。
「みんな、うまくやっているんだな……」
小さくつぶやいたものの、自分が同じように過ごせるかと考えると、すぐには想像できなかった。
仕事以外に、夢中になれるものがあるだろうか。平日の昼間に、誰と会い、何をして過ごすのだろう。
そのとき、机の上の電話が鳴った。
「佐伯さん、お久しぶりです。今度、近くに行く用事があるんですが、昼でも一緒にどうですか」
電話の相手は、三年前に定年退職した元上司の高橋だった。
誠が入社した頃から面倒を見てくれた人で、仕事の厳しさも、責任を持つことの意味も教えてくれた恩人だった。
「もちろんです。ぜひお願いします」
電話を切った誠の胸に、懐かしさと、ほんの少しの期待が広がった。
高橋は、定年後の生活をどう過ごしているのだろう。
誠は、久しぶりに会う日を楽しみに待つことにした。
*
待ち合わせたのは、駅前の小さな喫茶店だった。
「おお、佐伯。元気そうだな」
先に来ていた高橋は、以前と変わらない笑顔で手を振った。白髪は増えていたが、表情にはどこか穏やかさがあった。
仕事の話から始まり、昔の同僚の近況、会社の変化へと話題は移っていった。ひとしきり話したところで、誠は思い切って尋ねた。
「高橋さんは、退職されてから、どうですか。毎日、自由な時間があるんでしょう?」
高橋はコーヒーカップを置き、少し考えてから答えた。
「自由だよ。確かに自由だ。でもな、自由っていうのは、思っていたほど簡単なものじゃなかった」
「簡単じゃない、ですか?」
「会社にいた頃は、朝になれば出勤する場所があった。会議の時間も、やるべき仕事も決まっていた。誰かと話す機会も、毎日のようにあった。それが一度に変わるんだ」
高橋は窓の外を見た。
「退職したばかりの頃は、朝ゆっくり起きられるのがうれしかった。平日に映画を見たり、旅行に出かけたりもした。でも、しばらくすると、今日は何をしようかと考える時間が増えてきた」
「趣味を始めればいいんじゃないですか?」
誠がそう言うと、高橋は笑った。
「そう思うだろう? ところが、長年仕事ばかりしていると、自分が何を好きだったのかさえ、すぐには思い出せないんだ」
その言葉に、誠は返す言葉を失った。
仕事が忙しいことを理由に、友人との約束を断ってきた。休日に何かを始めようと思っても、疲れを理由に先延ばしにしてきた。
仕事がなくなったあと、自分は何をしたいのだろう。
「それに、会社の人と話す機会も減る。役職があれば、周りが相談に来てくれた。でも、退職すれば、こちらから連絡しない限り、会わなくなる人もいる。寂しいというより、自分の居場所が変わったことに、慣れるまで時間がかかったな」
高橋の声に、誠は退職後の現実を少しずつ感じ始めていた。
仕事を辞めれば、責任から解放される。そう考えていた自分は、あまりにも単純だったのかもしれない。
「高橋さんは、どうやって今の生活を見つけたんですか?」
「大したことはしていないよ。まず、朝起きる時間を決めた。近所を歩くようにして、昔の友人にも自分から連絡した。それから、地域の集まりに顔を出すようになった。最初から充実した毎日だったわけじゃない。少しずつ、自分の時間をつくっていったんだ」
「健康のことも、考えるようになりましたか?」
誠が尋ねると、高橋はうなずいた。
「考えるようになったね。現役の頃は、疲れていても仕事があれば動けた。多少無理をしても、翌日には出勤しなきゃならないからな。でも、これからは自分で自分の生活を管理しなきゃいけない」
高橋は、健康診断を受けること、睡眠をおろそかにしないこと、無理のない範囲で身体を動かすことを心がけていると話した。
「もちろん、それだけで何もかも解決するわけじゃない。気になる症状があれば医師に相談するし、年齢とともに変わることもある。大事なのは、若い頃と同じように無理をすることじゃなく、自分の状態を知って暮らし方を考えることだと思うよ」
誠は、先日、健康診断の結果を見ながら医師に相談したことを思い出した。
数字を確認するだけで終わらせず、これからの生活を考える。その必要性は理解し始めていた。だが、仕事を中心に組み立ててきた人生そのものを見直すことは、まだ先の話だと思っていた。
「佐伯、お前は定年後にやりたいことがあるか?」
不意に尋ねられ、誠は黙ってしまった。
「旅行……ですかね。妻と、ゆっくり出かけるとか」
「いいじゃないか。じゃあ、今から行けばいい」
「今から?」
「そうだよ。定年になったらやろう、時間ができたら始めよう。そうやって先送りしていると、時間ができても、何から始めればいいのか分からなくなることがある」
高橋は、穏やかな口調で続けた。
「退職後の準備って、お金の計算だけじゃないんだと思う。何を楽しみたいのか、誰と時間を過ごしたいのか。自分が元気なうちに、少しずつ考えておくことも大切なんじゃないかな」
その言葉は、誠の胸に深く残った。
*
帰宅すると、美紀が夕食の支度をしていた。
「お帰りなさい。今日は遅かったわね」
「高橋さんと会ってきたんだ。定年後の話をいろいろ聞いたよ」
誠は上着を脱ぎながら、喫茶店で聞いた話を伝えた。退職後には自由な時間が増える一方で、生活のリズムや人とのつながりが変わること。趣味や生きがいを、あらかじめ考えておくことも大切だということ。
美紀は、鍋の火を弱めながら聞いていた。
「私も、少し前から考えていたの」
「何を?」
「あなたが定年になったら、二人でどんなふうに暮らしたいのかなって。でも、あなたはいつも忙しそうだったから、なかなか話す機会がなかったでしょう」
誠は言葉に詰まった。
美紀と暮らして何十年にもなる。それなのに、定年後の二人の暮らしについて、きちんと話したことはなかった。
「ごめん。仕事のことばかり考えていたな」
「責めているわけじゃないのよ。ただ、せっかく時間ができても、何をしたいのか分からないままでは、もったいないと思って」
美紀は食卓に料理を並べた。
「遠くへ旅行するのもいいけれど、まずは近くを散歩したり、日帰りで出かけたりするのも楽しそうね。私、行ってみたい場所がいくつかあるの」
「そうか。今度、教えてくれよ」
誠は、妻の話をもっと聞いてみたいと思った。
これまでは、仕事が終わって帰宅すると、食事を済ませ、テレビを眺め、翌日の予定を確認する。それが当たり前になっていた。
同じ家で暮らしていても、二人がこれから何を楽しみに生きていきたいのか、知らないことが意外に多かった。
「それとね」と美紀が言った。「最近、あなた、朝に少し歩いているでしょう?」
「ああ。短い時間だけどな」
「いいことだと思うわ。長く続けられることを、少しずつ増やしていけたらいいわね」
誠はうなずいた。
健康のために何かを始めることは、特別な道具を買ったり、難しい方法を覚えたりすることだけではない。朝に歩くことも、食事をゆっくり味わうことも、家族と話す時間をつくることも、自分の暮らしを整える一歩なのだろう。
もちろん、生活習慣を変えれば、将来の不安がすべて消えるわけではない。
仕事を離れた後の収入や、身体の変化、家族のこと。考えなければならない問題は、これからもある。
それでも、何も考えずにその日を迎えるより、今できることから始めるほうがいい。
誠は、食卓の向こうにいる美紀を見た。
「なあ、今度の休み、どこかに出かけないか?」
美紀は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「いいわね。行きたいところ、考えておくわ」
その笑顔を見て、誠も自然に笑っていた。
*
その夜、誠は手帳を開いた。
仕事の予定を書き込むために使ってきた手帳だったが、空いている週末の欄に、初めて別の予定を書いた。
「美紀と出かける」。
たったそれだけの言葉だった。
しかし、書き終えた誠は、思いのほか満ち足りた気持ちになっていた。
定年後の暮らしは、まだ具体的には見えていない。何を楽しみ、誰と時間を過ごし、どんな毎日を送りたいのか。答えは、これから探していけばいい。
ただ一つ、気づいたことがあった。
人生は、会社を辞めた日から突然始まるわけではない。
今日も、明日も、そして定年までの数年間も、自分の人生の一部なのだ。
健康について考えることも、これからの暮らしを準備することも、いつか訪れる未来のためだけではない。今をよりよく生きるためにある。
誠は手帳を閉じ、明日の朝も少し歩こうと思った。
窓の外では、街の明かりが静かに瞬いていた。
その光を眺めながら、誠はふと考えた。
自分がこれからの人生で大切にしたいものは、仕事の肩書きだけではないはずだ。
では、何を基準に選び、何を残していけばいいのだろう。
健康のことも、食事のことも、まだ知らないことばかりだった。
そして、これから先、誠は健康に関するさまざまな情報や商品に出会うことになる。
そのとき、何を信じ、何を選ぶのか。
その答えを探す旅は、まだ始まったばかりだった。
今回の気づき
定年後の暮らしは、退職してから考えるものとは限りません。仕事以外の楽しみ、人とのつながり、生活リズム、そして健康。今できる小さな準備が、これからの人生を考えるきっかけになります。
健康を支えるのは、特別な方法だけではありません。無理のない運動、十分な休養、バランスのよい食事、家族や友人と過ごす時間など、日々の積み重ねも大切です。
次回予告 第8話「何を食べるか、誰と食べるか」
高橋との再会をきっかけに、定年後の暮らしを考え始めた誠。ある日の夕食で、妻の美紀が食卓に込めてきた思いを知ります。食べるものを選ぶこと、そして誰かと食卓を囲むこと。その二つの意味が、誠の中で少しずつ変わり始めます。

- 14,904円 [税込]
新たな健康の源!直井霊芝GY株使用・新・養気霊芝 エキストラ粒270粒 1粒200mgあたり ガノデリン酸 0.4mg以上含有 心と体のケアに最適な「新・養気霊芝」は、日本の美しい自然が育んだ霊芝を使用し、長寿県と言われる長野県で安心して栽培されています。このエキストラ粒は、厳選された直井霊芝GY株を使用し、徹底した品質管理のもとで製造されています。毎日の生活に取り入れやすい粒タイプで、手軽に健康維持をサポートします。健康成分を凝縮したこの霊芝は、忙しい現代人に欠かせない存在です。 「マンネン…

