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連載小説【健やかに生きるということ】(5/50)

第5話 若い頃と同じではいられない

50代からの健康と体力の変化――年齢を受け入れることは、あきらめることではない

1.昔なら、これくらい平気だった

月曜日の朝、佐伯誠は会社の階段を上りながら、思わず足を止めた。

息が切れていた。

三階まで上がっただけだ。エレベーターを待つ時間が惜しくて階段を選んだのは、ほんの数分前のことだった。

「……こんなに息が上がるものだったかな」

誰に聞かせるでもなく、誠はつぶやいた。

若い頃なら、階段を駆け上がっても何ともなかった。出張先では駅の構内を走り、重い鞄を持ったまま乗り換えに間に合わせることもできた。徹夜に近い仕事をした翌日でさえ、気合いを入れれば何とか乗り切れた。

ところが、五十五歳になった今は違う。

階段を上っただけで息が切れる。夕方になると目が疲れ、細かな数字を追うのがつらくなる。休日に少し遠出をすると、翌日は身体が重い。

もちろん、毎日が不調というわけではない。仕事もこなせるし、食欲もある。それでも、以前なら意識もしなかった身体の変化が、少しずつ目につくようになっていた。

「佐伯さん、おはようございます」

背後から声がした。

振り返ると、若手社員の高橋が書類を抱えて立っていた。

「おはよう。朝から元気だな」

「今日は朝一番で取引先に行くんです。駅まで走ることになるかもしれません」

高橋は笑いながら、階段を軽やかに上っていった。

その後ろ姿を見送りながら、誠は小さく苦笑した。

自分にも、あんな時期があった。

体力があることを疑わず、少し無理をしても、休めば元に戻ると思っていた。年齢を重ねれば誰でも変化する。そんなことは頭では分かっていたはずなのに、自分だけは、いつまでも以前と同じように動ける気がしていた。

誠は一度、深く息を吐いてから歩き出した。

老いを認めたくないわけではない。

ただ、これまでできていたことが、少しずつできなくなる。その変化を、どう受け止めればいいのかが分からなかった。

2.仕事のやり方も、変える時期なのか

午前中、誠は部長会議に出席した。

議題は、来期の業務計画と人員配置だった。経験のある管理職として、誠には部下の意見をまとめ、判断を下す役割がある。

会議そのものは順調だった。しかし、午後に入ると、集中力が続かなくなった。

画面に並ぶ数字を何度も確認し、同じ資料を読み返す。以前なら一度目を通せば把握できた内容なのに、今日は頭に入ってくるまで時間がかかった。

「佐伯部長、この資料の確認をお願いできますか」

部下の高橋が声をかけた。

「分かった。夕方までには見ておくよ」

そう答えたものの、誠は時計を見た。

すでに午後四時を過ぎている。これから取引先への返信をまとめ、明日の会議資料にも目を通さなければならない。

若い頃から、仕事は早く、正確に仕上げることを心がけてきた。忙しいときほど自分が頑張ればいい。人に任せるより、自分で確認したほうが確実だ。そう考えて、責任のある仕事を引き受けてきた。

それが、誠の誇りでもあった。

だが、最近は、そのやり方が自分自身を追い込んでいるようにも感じられる。

「部長、これ、僕のほうで先に確認しておきましょうか」

高橋が、机の横から資料をのぞき込んだ。

「いや、大丈夫だ。自分でやるよ」

反射的に答えてから、誠は少し考えた。

本当に自分でやる必要があるのだろうか。

仕事を任せることは、責任を放棄することではない。部下が経験を積む機会にもなるし、自分は判断や全体の確認に時間を使える。

頭では理解していた。しかし、長年身につけてきた仕事の習慣を変えるのは、思っていた以上に難しかった。

「……いや、悪い。まずは君の目で確認してみてくれるか。気になるところがあれば、あとで一緒に見よう」

高橋は少し驚いた顔をしたあと、明るく答えた。

「はい。やってみます」

その姿を見ながら、誠は思った。

身体だけでなく、働き方も、これまでと同じではいけないのかもしれない。

年齢を重ねることは、単純に能力が落ちるということではない。経験が増えたからこそできる仕事もある。一方で、体力や集中力の変化に合わせて、仕事の進め方を工夫する必要もあるのだろう。

自分のやり方を変えることは、これまでの自分を否定することではない。

そう考えると、ほんの少しだけ気持ちが軽くなった。

3.年齢のせいにして、見過ごしてはいけないこと

その夜、誠は帰宅すると、ソファに腰を下ろした。

美紀が湯飲みを二つ持ってきた。

「今日は疲れているみたいね」

「ああ。最近、夕方になると集中力が続かなくてね。階段を上っただけでも息が切れるし」

美紀は心配そうに顔を見た。

「健康診断のこともあるし、一度、先生に相談してみたら?」

「そうだな。でも、五十五歳にもなれば、こんなものじゃないのかな」

誠は何気なく言った。

すると、美紀は湯飲みをテーブルに置いた。

「年齢による変化はあると思うわ。でも、何でも年齢のせいにしてしまうのは、少し違うんじゃない?」

誠は妻を見た。

「どういうことだ?」

「疲れやすくなった理由が、本当に年齢だけなのかは分からないでしょう。睡眠が足りていないのかもしれないし、仕事の負担が大きいのかもしれない。身体の状態を確認したほうがいいこともあると思うの」

美紀の言葉には、無理に不安をあおるようなところはなかった。

ただ、分からないことを分からないままにしない。その姿勢が、誠には大切なことのように思えた。

以前、健康診断の結果を持って医師に相談したときも、数値だけで自分の状態を決めつけないようにと言われた。今回も同じだろう。

「確かに、そうだな。次に相談するとき、疲れやすくなったことも話してみるよ」

「うん。それがいいと思う」

美紀はうなずいた。

誠は、自分がいつから「疲れた」と口にすることを避けるようになったのか、考えてみた。

若い頃は、疲れていても、それを表に出すのは格好が悪いと思っていた。責任ある立場になってからは、弱音を吐けば周囲に心配をかけると考えるようになった。

だから、疲れを感じても「まだ大丈夫」と自分に言い聞かせてきた。

しかし、身体からのサインを無視することが、責任感の強さとは限らない。

休むことも、医師に相談することも、必要なら仕事のやり方を変えることも、自分の役割を長く果たしていくための判断なのではないだろうか。

「そういえば、最近、散歩もしていないな」

誠が言うと、美紀は少し笑った。

「この前、一緒に買い物に行こうって約束したのにね」

「ああ、そうだった」

二人で旬の野菜を選びに行こうと約束した休日。仕事の予定を入れてしまい、まだ実現していなかった。

「今度の土曜日は、予定を入れないようにするよ」

「本当に?」

「今度は本当だ」

美紀は笑いながら、「期待しているわ」と答えた。

4.身体に合わせて、少しずつ動く

土曜日の朝、誠はいつもより少し早く目を覚ました。

以前なら、休日の朝もメールを確認するところだった。しかし、その日はスマートフォンを机に置いたまま、カーテンを開けた。

窓の向こうには、秋の澄んだ空が広がっていた。

「買い物に行く前に、少し歩いてみないか」

朝食を終えた誠が提案すると、美紀はうれしそうにうなずいた。

二人は近所の公園まで歩くことにした。

歩き始めると、風が思いのほか冷たかった。街路樹の葉が色づき、道の端には落ち葉が重なっている。

「こうやって歩くの、久しぶりだな」

誠が言うと、美紀は笑った。

「そうね。あなたは休日も仕事をしていることが多かったもの」

「反省しているよ」

「じゃあ、これから少しずつね」

公園の入口に着くと、誠はベンチに腰を下ろした。長い距離を歩いたわけではない。それでも、急がずに歩き、景色を眺めるだけで、気持ちが落ち着いていくようだった。

「若い頃は、もっと動けたんだけどな」

誠がつぶやくと、美紀は隣に座った。

「若い頃と同じでなくてもいいんじゃない?」

「同じでなくても?」

「今のあなたに合ったやり方があるでしょう。昔みたいに無理をすることが目標じゃなくて、これからも自分の足で歩いて、好きなところへ行けるようにすることが大切なんじゃないかな」

誠は黙って、木々の間を歩く人たちを眺めた。

年齢を重ねることは、何かを失っていくことばかりではないのかもしれない。

若い頃には気づかなかった景色がある。仕事以外にも大切な時間がある。自分の限界を知ることで、無理をする必要のない場面も分かってくる。

もちろん、体力や身体の状態に合わせて、運動の量や強さを調整することは必要だ。急に頑張りすぎず、無理のない範囲で身体を動かす。痛みや強い息切れなど、気になる症状がある場合には、無理をせず医療機関に相談する。

誠は、そんな当たり前のことを、ようやく自分の暮らしに引き寄せて考え始めていた。

「よし。まずは、休日にこうして歩く時間をつくろう」

「いいわね。私も一緒に歩くわ」

「ただし、あまり速く歩かないようにしてくれよ」

「それは、あなた次第じゃない?」

美紀が笑い、誠もつられて笑った。

二人の間を、秋の風が静かに吹き抜けていった。

5.変わることを、恐れない

帰り道、二人はスーパーに立ち寄った。

美紀が野菜売り場で立ち止まり、旬の根菜を手に取った。

「今日はこれで煮物をつくろうかな」

「いいね。魚も買って帰ろう」

誠は買い物かごを持ち上げた。

以前なら、買い物は妻に任せ、自分は車の中で待っていたかもしれない。けれど、食材を選び、献立を考える時間は、思っていた以上に楽しかった。

「これからは、少しずつ生活を変えていこうと思う」

帰りの車の中で、誠は言った。

「仕事も、食事も、身体を動かすことも。いきなり全部は無理だけどね」

「それでいいと思うわ。無理をしないことも大切だから」

「まずは、疲れたら休む。仕事を抱え込みすぎない。休日に歩く。それから、医師にも相談する」

「うん。続けられそうなことから始めましょう」

誠は窓の外に目を向けた。

五十五歳。若い頃と同じではいられない。その事実は、これからも折に触れて彼の前に現れるだろう。

しかし、それは、これからの人生をあきらめる理由にはならない。

自分の身体を知り、変化を認め、暮らし方を調整していく。できなくなったことばかりを数えるのではなく、今の自分にできることを見つけていく。

その積み重ねが、これからの人生を支えてくれるのかもしれない。

その夜、誠は机の手帳を開き、翌週の予定を見直した。会議と打ち合わせの隙間に、休憩時間を書き込む。土曜日には「散歩」と記した。

小さな予定だった。

それでも、これまで仕事で埋め尽くしていた手帳に、自分の身体と家族のための時間が加わったことが、誠には少しうれしかった。

手帳を閉じると、居間から美紀の声がした。

「お茶をいれたわよ」

「今、行くよ」

誠は立ち上がり、居間へ向かった。

若い頃と同じではいられない。

けれど、今の自分だからこそ、気づけることがある。変えられる習慣がある。大切にできる時間がある。

そう思えたことが、誠にとって、今日の一歩だった。


今回の気づき

五十代になると、体力や疲れ方、回復の感覚などに変化を感じることがあります。大切なのは、若い頃と同じように無理をすることではなく、今の自分に合った働き方や生活習慣を考えることです。ただし、疲れや息切れなどを年齢だけのせいにせず、気になる変化は医師に相談しましょう。休息や適度な運動を、無理なく続けられる形で取り入れていくことが大切です。

次回予告 第6話「情報が多すぎる時代の健康法」

健康診断をきっかけに、食事や運動を見直し始めた誠。ところが、インターネットを開けば、健康に関する情報が次々と目に飛び込んでくる。「これが身体にいい」「あれは避けるべき」。いったい何を信じればいいのだろう。健康のために始めた情報収集が、いつしか誠を迷わせていく。


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