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「母は家族の最後の砦だった」第1話 家族優先の毎日

「『お母さんは大丈夫』が、一番危なかった。」

朝五時。

目覚まし時計が鳴る前に、美智子は静かに布団を抜け出した。

五十四歳。

夫と大学生の息子、高校生の娘、そして八十五歳になる義母との五人暮らし。

家族が目を覚ます前の二時間が、一日の勝負だった。

炊飯器のスイッチを入れる。

味噌汁を作る。

洗濯機を回す。

娘のお弁当を詰める。

義母の朝食は柔らかめに。

夫は塩分を控えめに。

息子は食べ盛りだから、ご飯は少し多め。

「今日はブロッコリーが安かったから入れておこう。」

家族それぞれの顔を思い浮かべながら、手は休むことなく動き続ける。


午前七時。

「お母さん、お弁当ありがとう!」

娘が元気よく玄関を飛び出す。

「いってらっしゃい。気をつけてね。」

続いて夫。

「今日も遅くなる。」

「分かったわ。夕飯は温めて食べてね。」

息子も急いで朝食をかき込む。

「母さん、ごちそうさま!」

「いってらっしゃい。」

玄関のドアが閉まる。

ようやく静かになった家。

時計を見ると七時四十分。

美智子は冷めかけた味噌汁を一人で飲んだ。

「いただきます。」

家族には温かい朝食。

自分は残り物。

それが当たり前になっていた。


午前中はスーパーでパート勤務。

レジに立ち続け、休憩時間は十五分。

同僚が声を掛けた。

「佐藤さん、最近疲れてない?」

「そんなことないわ。」

いつもの笑顔で答える。

「昨日も遅くまで家事だったんでしょう?」

「まあね。」

「少し休めばいいのに。」

美智子は笑った。

「お母さんは休めないのよ。」

何気なく言ったその一言に、同僚は少し黙ってしまった。


午後三時。

買い物を済ませ、自宅へ戻る。

義母の通院の日だった。

「お義母さん、今日は膝の調子どうですか?」

「今日は少し楽よ。」

病院まで付き添い、薬を受け取り、夕方には帰宅。

休む暇はない。

今度は夕食の支度が始まる。

野菜を切る。

魚を焼く。

煮物を温める。

味噌汁を作る。

食卓に並ぶ料理を見て、義母が微笑んだ。

「美智子さんのご飯は安心するね。」

その一言が嬉しかった。


夜七時。

家族全員がそろった。

「いただきます。」

娘が学校の出来事を話す。

息子はアルバイトの話。

夫は仕事の愚痴をこぼす。

義母は昔話を始める。

美智子は相づちを打ちながら、みんなの皿を見て回る。

「お父さん、お味噌汁おかわりする?」

「ありがとう。」

「おばあちゃん、お魚食べやすい?」

「大丈夫よ。」

「翔太、ご飯足りる?」

「もう一杯!」

誰かが困る前に動く。

それが美智子の日常だった。


食後。

家族がテレビを見ている間、美智子は台所で洗い物を続ける。

気付けば午後九時。

ようやくソファへ腰を下ろした。

その瞬間だった。

「お母さん。」

娘が声を掛ける。

「明日、家庭科でエプロンがいる。」

「あら、アイロン掛けてなかった。」

再び立ち上がる。

夫が申し訳なさそうに言う。

「俺がやろうか。」

「大丈夫、大丈夫。」

その言葉が口癖になっていた。


午後十時半。

ようやく布団へ入る。

その時、ふくらはぎが少しつった。

「最近、足が疲れやすいな……。」

肩も重い。

朝起きても疲れが残る日が増えていた。

でも、

「更年期だからかな。」

「年齢のせいよね。」

そう自分に言い聞かせる。

病院へ行くほどではない。

寝れば治る。

そう思っていた。


数日後の日曜日。

久しぶりに家族全員がそろって昼食を食べていた。

娘が笑いながら言う。

「お母さんって風邪ひかないよね。」

息子も続ける。

「そうそう。いつも元気。」

夫も笑う。

「家族で一番丈夫なのはお母さんだ。」

美智子も笑った。

「そうかしら。」

しかし、その時だけだった。

一瞬だけ、胸の奥に違和感がよぎった。

「私は、本当に元気なのかな……。」

その問いは、すぐに家族の会話にかき消された。


夜。

洗濯物を畳み終えた美智子は、鏡の前に立った。

目の下には薄くクマができている。

髪にも白いものが増えた。

「歳を取ったわね。」

そう笑ってみせる。

しかし、その笑顔は少し疲れていた。

その様子を、廊下から義母が見ていた。

「美智子さん。」

「はい?」

「昔、おばあちゃんが言っていた言葉を思い出したの。」

「何ですか?」

義母は静かに言った。

「家族を支える人ほど、自分を大切にしなさい。」

「柱が倒れたら、家は守れないからね。」

美智子は笑って答えた。

「私は大丈夫ですよ。」

義母は何も言わなかった。

ただ、少し心配そうな表情で美智子を見つめていた。


その夜。

眠りにつく直前、美智子は天井を見つめていた。

家族が笑っている毎日は幸せだ。

そのためなら、自分が少し無理をするくらい構わない。

ずっとそう思ってきた。

しかし、身体は少しずつ小さなサインを送り始めていた。

そのサインに気付かないまま、毎日を過ごしていたのである。

まだ誰も知らない。

この数週間後、

家族全員が体調を崩し、最後まで動き続けた美智子自身も倒れることになることを。

そして、その出来事が、「健康とは何か」を家族全員で考える大きなきっかけになることを。

──第2話「疲れが抜けない」へ続く。


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