第9話 本当の資産とは健康だった
「失って初めて気づく前に、守るべきものがある」
朝六時。
窓から差し込む柔らかな朝日を浴びながら、佐伯誠一は静かにコーヒーを飲んでいた。
以前なら、この時間はすでにメールを開き、今日の予定を確認していた。
しかし今は違う。
鳥のさえずりを聞きながら、その日の予定をノートに書き出す。
焦ることもなく、一日を迎える準備をする。
「ずいぶん変わったものだな。」
自分でもそう思った。
仕事は以前と変わらず忙しい。
責任も重い。
それでも心には、不思議な余裕が生まれていた。
その日、会社では創立記念式典が開かれていた。
創業から三十年。
多くの社員や取引先が集まり、会場は活気にあふれていた。
式典が終わると、一人の若い社員が佐伯のもとへやって来た。
「社長、お時間よろしいでしょうか。」
「もちろん。」
「実は、相談があります。」
佐伯は静かに耳を傾けた。
若手社員は、新しいプロジェクトへの挑戦を迷っていた。
「失敗したらどうしようと思ってしまって……。」
以前の佐伯なら、
「挑戦しろ。」
その一言で終わっていただろう。
しかし今は違った。
「君は何が一番心配なんだ?」
「家族です。」
「子どももまだ小さくて……。」
佐伯は静かにうなずいた。
「責任があるからこそ悩むんだな。」
社員は少し安心した表情を見せた。
その姿を見ながら佐伯は思った。
昔の自分なら、相手の事情を見る余裕がなかった。
昼休み。
創業当時から会社を支えてくれた専務と食事をしていると、専務が笑いながら言った。
「社長。」
「何だ?」
「最近、社員が社長室へ来やすくなりました。」
「そうなのか。」
「以前は緊張していましたから。」
二人は笑った。
専務は続けた。
「会社の雰囲気まで変わりましたよ。」
「それは社員のおかげだ。」
「いいえ。」
専務は首を振る。
「社長が変わったからです。」
その言葉は、思っていた以上に心へ響いた。
会社は設備だけでは変わらない。
制度だけでも変わらない。
一番変わるべきだったのは、自分だったのだ。
数日後。
佐伯は久しぶりに大学時代の親友・高橋と再会した。
二人は静かな喫茶店の窓際に座っていた。
高橋が笑顔で言う。
「顔色が良くなったな。」
「ありがとう。」
「ところで。」
高橋は真剣な表情になった。
「会社で一番大切な資産は何だと思う?」
佐伯は即座に答えた。
「人だ。」
「その通り。」
「では、その人を支えている一番大切なものは?」
佐伯は少し考えた。
社員。
家族。
信頼。
経験。
どれも大切だ。
しかし、そのすべてに共通するものがあった。
「健康……か。」
高橋は静かにうなずいた。
「病気になって初めて健康のありがたさに気付く人は多い。」
「そうだな。」
「でも、それでは遅いこともある。」
「健康は、失ってから取り戻そうとすると、多くの時間と労力が必要になる。」
「だから一流の経営者ほど、健康を『コスト』ではなく『投資』として考えている。」
佐伯は、これまでの日々を思い返した。
会社には毎年設備投資をしてきた。
人材育成にも費用を惜しまなかった。
だが、自分自身への投資はどうだっただろう。
「忙しいから。」
「時間がないから。」
そんな言い訳を続けてきた。
しかし、それは会社で言えば、設備の点検を何年も放置するようなものだった。
その週末。
先生を訪ねると、庭では若葉が青々と茂っていた。
先生は一本の大きな木を指差した。
「この木は樹齢百年以上です。」
「立派ですね。」
「毎年少しずつ成長してきました。」
「一日で大きくなったわけではありません。」
「もちろんです。」
「人も同じです。」
先生は静かに続けた。
「健康とは、毎日の積み重ねが未来に現れた姿です。」
「そして、その積み重ねは家族にも、会社にも伝わります。」
「先生。」
佐伯は少し考えてから尋ねた。
「私は以前、健康とは自分だけの問題だと思っていました。」
「今は違います。」
「私が元気でいることは、社員にも、家族にも影響する。」
先生は微笑んだ。
「ようやく、本当の意味が見えてきましたね。」
「健康とは、自分だけの財産ではありません。」
「あなたを必要としている人たちのための財産でもあるのです。」
帰宅後、佐伯は書斎の金庫を開けた。
中には会社の重要書類や資産一覧が保管されている。
預金。
株式。
不動産。
契約書。
どれも会社にとって大切な資産だった。
しかし、その横に健康診断の結果表が置かれているのを見つけた。
昨年までの結果。
「異常なし。」
その文字が並んでいる。
佐伯は思わず笑った。
「数字だけ見て安心していたんだな。」
健康とは、検査結果だけでは測れない。
毎日を笑顔で過ごせること。
家族との時間を楽しめること。
社員の話を最後まで聞けること。
未来の計画を前向きに考えられること。
そのすべてが、本当の健康なのだと気付き始めていた。
翌朝の朝礼。
佐伯は社員たちの前で話し始めた。
「私は最近、一つのことを学びました。」
社員たちは静かに耳を傾ける。
「会社には多くの資産があります。」
「建物。」
「設備。」
「資金。」
「技術。」
「しかし、それらを活かすのは人です。」
「そして、人を支える土台が健康です。」
「だから私は、これから会社としても、働く皆さんが健康を大切にできる環境づくりを進めていきたいと思います。」
会場は静まり返っていた。
その後、大きな拍手が起こった。
その夜、高橋から一通のメッセージが届いた。
『誠一。最初に会った頃、お前は会社を守ることしか考えていなかった。今は、自分も守ることを覚えたな。』
佐伯は笑みを浮かべながら返信した。
『会社を守る一番の方法は、自分自身を大切にすることだったよ。』
窓の外には満天の星が広がっている。
健康とは、病気ではない状態を指す言葉ではなかった。
人生を支える、かけがえのない資産だった。
そして、その資産は、一日一日の積み重ねによって育まれていく。
佐伯は静かに深呼吸をした。
この物語も、いよいよ最後の一歩を迎えようとしていた。
──最終話「未来への投資」へ続く。

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