連載小説【健やかに生きるということ】(8/50)
第8話 何を食べるか、誰と食べるか
――食卓に戻ってきた、夫婦の時間
佐伯誠は、最近、夕食の時間を少しだけ大切にするようになっていた。
以前の誠にとって、夕食は一日の仕事を終えた後に済ませるものだった。帰宅が遅くなれば、妻の美紀が用意してくれた料理を温め直し、一人で食べることも珍しくない。
食事の途中で仕事のメールを確認したり、テレビのニュースに目を向けたりする。美紀から何か話しかけられても、「うん」「そうだね」と短く返すだけで、会話が続かないこともあった。
それが当たり前になっていた。
しかし、先日、会社の先輩である田島と会ってから、誠の中に小さな変化が生まれていた。
定年後の生活について話を聞いた田島は、仕事以外の時間をどう過ごすか、誰とつながっていくかが大切だと教えてくれた。
その言葉を聞いて以来、誠は自分のこれからを考えるようになった。
仕事を離れた後、毎日をどう過ごすのか。
誰と食事をし、どんな話をするのか。
考えてみると、これまでの誠は、そんな当たり前のことさえ深く考えたことがなかった。
いつもの食卓にあったもの
その日の夕食は、焼き魚と野菜の煮物、ほうれん草のおひたし、それに豆腐とわかめの味噌汁だった。
「今日は魚なんだな」
誠が箸を取ると、美紀が笑った。
「最近、あなたが夕食の時間に間に合うようになったから、少し張り切っているのよ」
「そうだったのか」
「前は、帰ってくる時間も分からなかったでしょう。せっかく作っても、一人で食べることが多かったから」
美紀の言葉に、誠は箸を止めた。
「悪かったな。仕事が忙しくて、つい……」
「責めているわけじゃないの。ただ、二人で食べると、同じ料理でも少し違う気がするのよ」
美紀は味噌汁を口に運んだ。
「一人で食べると、何を食べたかだけで終わってしまうことがあるでしょう。でも、誰かと食べると、自然に話もするし、ゆっくり味わうこともできる」
誠は、目の前の料理を改めて眺めた。
焼き魚の香ばしい匂い。煮物に染み込んだ出汁の味。味噌汁の温かさ。
特別な料理ではない。
高価な食材を使っているわけでもない。
それでも、こうして誰かと向き合いながら食べると、いつもよりおいしく感じられる気がした。
「そういえば、最近は食事のことも考えるようになったんだ」
「どんなこと?」
「健康のためには、何を食べればいいのかってことだよ。野菜を増やした方がいいとか、たんぱく質が必要だとか、いろいろ聞くからね」
美紀は少し考えてから答えた。
「もちろん、食べる内容は大切よ。でも、何か一つの食品を食べれば健康になるという話ではないでしょう?」
「そうだな」
「いろいろなものを、偏らずに食べること。量や塩分にも気をつけること。そして、無理なく続けられること。それが大事なんじゃないかしら」
誠はうなずいた。
健康のために、何を食べればいいのか
翌日の昼休み、誠は会社の食堂で同僚の田中と向かい合っていた。
田中は、最近、食生活を見直しているという。
「佐伯さん、最近、昼食はどうしています?」
「以前とあまり変わらないな。定食を食べることが多いよ」
「私は、なるべく野菜を一品追加するようにしているんです。以前は丼物だけで済ませることも多かったんですが」
「何かきっかけがあったのか?」
「健康診断の結果を見てからですね。食事だけで全部が変わるとは思っていませんが、毎日のことなので、できるところからやろうと思って」
田中の話を聞きながら、誠は自分の食生活を振り返った。
朝は時間がないからと、コーヒーだけで済ませる日がある。昼は手軽なものを選び、夜は遅い時間に食べることも多かった。
忙しさを理由に、食事を単なる作業のように扱っていたのかもしれない。
「食事って、結局、何を食べるかだけじゃなくて、どう食べるかも大事なんだろうな」
誠がそう言うと、田中はうなずいた。
「そうですね。私は、できるだけ急いで食べないようにしています。仕事の合間でも、食事の時間くらいは落ち着きたいですから」
その言葉は、誠の心に残った。
食事は、身体に必要な栄養を補う時間である。
同時に、仕事から少し離れ、自分の身体と向き合う時間でもある。
それを忘れていたのかもしれない。
食卓を整えるということ
その週末、誠は美紀と一緒に近所の食品店へ出かけた。
野菜売り場には、季節の野菜が並んでいた。二人は夕食の材料を選びながら、普段はあまり話さない食材のことについて会話を交わした。
「この野菜、どうやって食べるんだ?」
「炒めてもいいし、煮物にしてもいいわね。旬のものは、その時期においしく食べられるのがいいところよ」
「旬か。最近は一年中いろいろな野菜があるから、あまり意識しなくなったな」
「そうね。でも、季節を感じながら食べるのも楽しいでしょう?」
美紀は、野菜を手に取りながら続けた。
「それに、食品を選ぶときは、値段だけでなく、産地や原材料表示を見ることもあるの。どんなものを使っているのか、どう作られているのか、分かる範囲で確かめたいから」
「健康に良さそうな言葉だけで決めない、ということか」
「そう。『自然』とか『無添加』という表示だけで、すべてを判断できるわけではないもの。原材料や内容を見て、自分で納得して選ぶことが大切だと思うの」
誠は、以前、健康食品の広告を見ていたときのことを思い出した。
「健康に良い」と書かれていると、つい気になってしまう。しかし、何が入っているのか、どこで作られているのか、どのような情報が確認できるのかまでは、十分に見ていなかった。
食品も健康食品も、選ぶ前に確かめることが必要なのだ。
「これからは、買い物も少し手伝うよ」
誠がそう言うと、美紀は意外そうな顔をした。
「それは助かるわ。じゃあ、次から一緒に献立を考えてくれる?」
「分かった。まずは、魚料理から覚えようかな」
二人は笑いながら、買い物かごに食材を入れた。
誰と食べるかが、暮らしを変える
その日の夕食は、二人で選んだ野菜を使った煮物と焼き魚だった。
誠は、いつもより少し時間をかけて食べた。
「こうして一緒に買い物をして、料理の話をするのも悪くないな」
「でしょう?」
美紀はうれしそうに笑った。
「定年後は、こういう時間がもっと増えるのかしらね」
「そうなるといいな。ただ、毎日何をするか、今から考えておかないといけないな」
「そうね。でも、難しく考えなくてもいいんじゃない? 一緒に散歩したり、季節のものを食べに出かけたり。小さな楽しみを増やしていけばいいと思うわ」
誠は、先日会った田島の言葉を思い出した。
定年後の生活は、退職してから突然始まるものではない。
今の暮らしの中に、少しずつ準備できることがある。
食事も、その一つなのだろう。
何を食べるか。
どんなものを選ぶか。
誰と食卓を囲むか。
その積み重ねが、これからの暮らしを形づくっていく。
「美紀、来週は少し遠くまで出かけてみないか。地元の農産物を売っているところを見てみたいんだ」
「いいわね。帰りにおいしいものでも食べましょう」
「今度は、俺が店を探しておくよ」
誠は、そう言って笑った。
窓の外には、秋の夜が静かに広がっていた。
健康のために何を食べるかを考えることは、自分の身体を大切にすることにつながる。
そして、誰かと食卓を囲むことは、その人との時間を大切にすることでもある。
誠は、目の前の味噌汁をゆっくりと飲んだ。
いつもの食卓が、少しだけ違って見えた。
これから先の人生を考えるとき、特別なことから始める必要はないのかもしれない。
毎日の食事を大切にする。
家族と話す。
季節の味を楽しむ。
そんな小さなことの中に、健やかに生きるためのヒントがある。
そして誠は、食べ物の向こう側にあるものにも、少しずつ関心を持ち始めていた。
その食材は、どこで育ったのだろう。
誰が、どんな思いで作っているのだろう。
次の休日には、そんなことを確かめるために、もう少し足を延ばしてみようと思った。
今回の気づき
健康を考えるうえで、食事の内容は大切です。しかし、特定の食品だけに頼るのではなく、さまざまな食品をバランスよく取り入れ、無理なく続けられる食生活を心がけることが基本です。
また、食事は栄養を摂るだけの時間ではありません。家族や友人と会話を楽しみ、季節や素材の味を感じることも、日々の暮らしを豊かにしてくれます。
「何を食べるか」と同じくらい、「誰と、どんな時間を過ごしながら食べるか」も大切にしたいものです。
次回予告
第9話「健康食品という選択肢」
食生活を見直し始めた誠は、健康食品にも関心を持つようになります。しかし、店頭やインターネットには多くの商品が並び、価格も特徴もさまざまです。
何を基準に選べばよいのか。
誠は、健康食品との付き合い方について、改めて考え始めます。

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