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小説

連載小説【健やかに生きるということ】(15/50)

第15話 季節の移ろいと身体の声

 朝、佐伯誠はいつものようにカーテンを開けた。

 窓の外には、少しずつ色づき始めた木々が見える。つい先日まで暑さを感じていたのに、朝の空気には、もう秋の気配が混じっていた。

「ずいぶん涼しくなったな」

 独り言のようにつぶやき、誠は窓を少し開けた。

 冷たい風が頬に触れる。

 以前なら、季節の変化など気にも留めなかった。暑ければ冷房をつけ、寒ければ暖房を入れる。仕事の予定に合わせて一日を過ごし、外の景色を眺める余裕などほとんどなかった。

 しかし、朝の散歩を始めてから、誠の目には少しずつ違うものが映るようになっていた。

 日の出の時刻、空気の冷たさ、道端の草花、木々の色。

 同じ道を歩いていても、毎日少しずつ景色が変わっている。

「あなた、今日は上着を着ていった方がいいわよ」

 台所から美紀の声がした。

「そんなに寒いか?」

「朝晩は冷えるようになったでしょう。昼間は暖かくても、油断すると身体が冷えるわよ」

「そうか。もうそんな季節か」

 美紀は笑いながら、温かい味噌汁を食卓に置いた。

「季節が変わると、食べたいものも変わってくるわね」

「確かに。夏は冷たいものばかり食べていた気がする」

「これからは温かい料理が増えるわね。根菜もおいしくなるし」

 誠は味噌汁を一口飲んだ。

 温かさが身体に広がるように感じた。

 それは特別な健康法ではない。いつもの朝食だった。しかし、その日の誠には、季節に合わせて食べるということが、少し新鮮に思えた。

     *

 会社では、季節の変わり目の話題が出ていた。

「最近、朝晩と昼間の気温差が大きいですね」

 部下の田中が、窓の外を見ながら言った。

「そうだな。朝は寒いのに、昼間は上着がいらないくらいだ」

「私はこの時期、服装に困るんですよ。朝の通勤では寒いし、帰りは暑かったりして」

 誠は笑った。

「若い頃は、そんなことを気にしたこともなかったな」

「佐伯さんもですか?」

「昔は、多少寒くても暑くても気合いで何とかしていた。でも、今はそうもいかない」

 そう言いながら、誠は自分の言葉に少し驚いた。

 以前の自分なら、年齢を重ねたことを認めるのが嫌だったかもしれない。

 だが今は、身体の変化を否定するより、受け止めて工夫する方が現実的だと思えるようになっていた。

 昼休み、誠は村上に電話をかけた。

 先日、睡眠について話を聞いたとき、村上が季節と生活の関係についても触れていたことを思い出したからだ。

「村上さん、季節の変わり目って、やっぱり生活の仕方を変えた方がいいんでしょうか」

『変えるというより、季節に合わせて調整する、と考えたらいいんじゃないかな』

「調整ですか」

『暑い時期と寒い時期では、身体の感じ方も、活動しやすい時間も違うだろう。だから、同じ生活を無理に続ける必要はないんだよ』

「確かに。最近は朝の散歩も、少し寒く感じるようになりました」

『それなら、時間を少し遅らせてもいい。服装を工夫してもいい。大切なのは、決めた習慣を守ることより、自分の身体の状態に合わせることだよ』

 誠は、なるほどと思った。

 朝の散歩を始めてから、毎日続けることを意識していた。雨の日や忙しい日には休むこともあったが、どこかで「続けなければ意味がない」と考えていた。

 しかし、村上の話を聞くと、続けることの意味を少し取り違えていたのかもしれない。

『東洋医学には、自然の変化に合わせて暮らすという考え方がある。季節によって食事や活動、休息の取り方を見直すことも、養生の一つなんだ』

「養生というと、何か特別なことをするイメージがありました」

『特別なことばかりじゃないよ。無理をしないこと、身体を冷やしすぎないこと、季節の食材を取り入れること。そういう日々の工夫も養生なんだ』

「なるほど。健康のために何かを足すだけじゃなく、暮らし方を見直すことなんですね」

『そういうこと。ただし、季節の変化で体調不良が続く場合は、単に季節のせいと決めつけず、必要に応じて医療機関に相談することも大切だよ』

「分かりました。ありがとうございます」

 電話を切った誠は、窓の外を眺めた。

 季節は、自分の都合とは関係なく移り変わっていく。

 それなのに、自分はいつも同じ時間に起き、同じように働き、同じように過ごそうとしていた。

 身体の声を聞くというのは、こういう小さな変化に気づくことなのかもしれない。

     *

 その週末、誠と美紀は近くの農産物直売所へ出かけた。

 店先には、夏の野菜に代わって、きのこや根菜、秋の果物が並び始めていた。

「見て。もうリンゴが出ているわ」

 美紀が手に取ったリンゴを見せた。

「この前までスイカを食べていたのにな」

「季節が変わるのは早いわね」

 誠は、野菜の棚を眺めながら言った。

「村上さんから聞いたんだ。季節に合わせて暮らし方を調整することも、養生の一つなんだって」

「そうね。昔の人は、今ほど冷暖房も便利な道具もなかったから、自然の変化をよく見て暮らしていたんでしょうね」

「今は便利になった分、季節を意識する機会が減ったのかもしれないな」

 美紀は、カゴに大根とキノコを入れた。

「でも、便利なものを使うことが悪いわけじゃないわ。冷房も暖房も必要なときは使えばいい。ただ、頼りきりにならずに、自分の身体の様子も見ておくことが大切なんじゃない?」

「確かに」

 誠は、妻の言葉にうなずいた。

 健康のためだからといって、何かを我慢し続ける必要はない。自然に合わせることと、無理をすることは違う。

 買い物を終えた二人は、帰り道に少し遠回りをした。

 田んぼの向こうには、秋の空が広がっていた。風が吹くたびに、稲穂がゆっくりと揺れる。

「こうして季節を感じながら歩くのも、いいものだな」

「そうでしょう。前は、あなたと一緒に買い物に来ても、いつも急いでいたものね」

「そんなに急いでいたか?」

「ええ。買うものを決めたら、すぐに帰ろうとしていたわ」

 誠は苦笑した。

 仕事の効率を考える癖が、いつの間にか休日の過ごし方にまで染みついていたのだろう。

「これからは、もう少しゆっくり歩くよ」

「その方がいいわね」

 二人は、田んぼの脇を並んで歩いた。

     *

 その夜、誠は寝る前に窓の外を見た。

 昼間とは違い、夜の空気は冷たかった。

 数日前から、寝室の温度や寝る前の過ごし方を少しずつ見直している。就寝前に仕事のメールを見るのを控え、部屋の明かりも落ち着いたものに変えた。

 まだ、毎晩ぐっすり眠れるようになったわけではない。それでも、眠れないことを焦るより、できることを一つずつ試してみようと思っていた。

 誠は、ベッド脇に置いたノートを開いた。

 そこには、最近始めた習慣が書かれている。

 朝の光を浴びる。
 無理のない範囲で歩く。
 食事のバランスを考える。
 寝る前は仕事から離れる。

 その下に、今日のことを書き加えた。

 「季節に合わせて、暮らし方を変える」

 書き終えた誠は、しばらくその文字を眺めていた。

 健康とは、決められた方法を守り続けることではないのかもしれない。

 年齢や季節、仕事や家庭の状況によって、身体の状態も暮らしの形も変わっていく。

 その変化に気づき、自分に合うように調整していく。

 それもまた、自分の身体を大切にするということなのだろう。

 窓の外では、秋の夜が静かに深まっていた。

 誠は明日の朝、少し遅めに散歩へ出かけようと決めた。

 季節が変わるのなら、自分の暮らしも少しずつ変えていけばいい。

 そう考えると、これから迎える秋が、以前より楽しみに思えた。


今回の気づき

  • 季節や気候の変化に合わせて、服装・食事・活動・休息を調整することも養生の一つ。
  • 東洋医学には、自然のリズムに沿って暮らすという考え方がある。
  • 健康習慣は、決めたことを無理に守るより、自分の身体や生活に合わせて続けることが大切。
  • 体調不良が続く場合は、季節のせいと決めつけず、医療機関への相談も考える。

次回予告

第16話 自然食品なら何でもよいのか

自然に育ったもの、無添加と表示されたもの。健康を意識し始めた誠は、食品売り場でさまざまな商品に目を向けるようになる。

しかし、ある日、美紀から投げかけられた一言に考え込む。

「自然食品って書いてあれば、それだけで安心なの?」

自然という言葉の意味と、本当に信頼できる食品を選ぶための視点を、誠は学び始める。


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