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小説

連載小説【健やかに生きるということ】(13/50)

第13話 食べることは、生きること

朝の散歩を始めてから、佐伯誠の一日は少しずつ変わっていた。

毎朝必ず歩くわけではない。雨の日もあれば、仕事の都合で時間が取れない日もある。それでも、時間に余裕のある朝には、妻の美紀と近所を歩くようになった。

以前なら、休日の朝は昼近くまで寝ていることも珍しくなかった。起きてからも新聞やスマートフォンを眺め、気がつけば午前中が終わっている。

それが今では、朝の空気を感じながら歩き、帰宅してから朝食をとる。たったそれだけのことだが、一日の始まりに余裕が生まれたような気がしていた。

その日も、二人は近所の公園を一周して帰ってきた。

「今日は少し遠回りしたわね」

美紀が笑いながら言った。

「そうだな。歩くのも、慣れてくると気持ちがいいものだ」

「始めた頃は、十分歩いただけで疲れたって言っていたのに」

「余計なことを覚えているな」

そんな会話を交わしながら、二人は台所に入った。

食卓には、ご飯、味噌汁、焼き魚、ほうれん草のおひたし、漬物が並んでいた。

「今日は和食か」

「いつもと変わらないわよ。特別な料理じゃないけれど」

誠は味噌汁を一口飲んだ。

「うまいな」

「そう言ってもらえると、作った甲斐があるわ」

何気ない朝食だった。けれど、誠はふと、以前の自分の食事を思い出した。

忙しい朝はコーヒーだけ。昼は仕事の合間に済ませる弁当や外食。夜は帰宅が遅くなり、空腹を満たすことを優先していた。

食べることは、仕事を続けるために必要な作業のようになっていた。

「俺は、食事のことをあまり考えてこなかったな」

「そうね。食べてはいたけれど、何を食べているかまでは気にしていなかったかもしれないわね」

美紀の言葉に、誠は苦笑した。

「確かに。腹がいっぱいになれば、それでいいと思っていた」

「私だって、毎日理想的な食事を作れているわけじゃないわ。でも、できるだけいろいろなものを食べるようにはしているの」

「いろいろなもの?」

「野菜も、魚も、豆も。毎日同じものばかりにならないようにね」

誠は食卓を見渡した。

健康のための食事と聞くと、特別な食材や高価な食品を思い浮かべていた。しかし、目の前にあるのは、どこの家庭にもあるような料理だった。

「健康にいいものを食べようと思うと、何か特別なものを買わなければいけない気がしていたよ」

「そんなことはないと思うわ。まずは普段の食事を見直すことじゃないかしら」

その言葉が、誠の心に残った。


数日後、会社の昼休み。

誠は同僚の田中と食堂で昼食をとっていた。

田中は五十代前半。以前から健康に関心があり、食事や運動についてよく話をしていた。

「佐伯さん、最近、昼食の選び方が変わりましたね」

「そうか?」

「以前は、丼ものや麺類が多かったでしょう。今日は焼き魚定食ですか」

誠は自分の皿を見た。

「妻に食事のことを言われてな。少し意識するようになったんだ」

「それはいいですね。私も栄養のことを調べたことがありますが、結局、基本は偏らずに食べることだと思いました」

田中は箸を置いて続けた。

「例えば、野菜を食べているつもりでも、同じ種類ばかりだったりしますよね。主食、主菜、副菜を意識すると、食事全体を見直しやすいそうです」

「主食、主菜、副菜か」

「ええ。ご飯やパンなどの主食、魚や肉、卵、大豆製品などの主菜、野菜や海藻などの副菜。もちろん、一食ですべてを完璧にそろえなければならないという話ではありません」

誠はうなずいた。

「なるほど。何か一つの食品を食べればいいということではないんだな」

「そうです。食品にはそれぞれ特徴がありますから、いろいろなものを組み合わせることが大切なんでしょうね」

田中の話を聞きながら、誠は健康についての考え方が少し変わってきたことを感じていた。

以前は、身体に良いと聞けば、その食品を探そうとしていた。けれど、今は何か一つを足す前に、普段の食事に不足や偏りがないかを考えるようになっていた。


その週末、誠は美紀と一緒に近所の直売所へ出かけた。

店内には、地元で採れた野菜や果物、豆類、加工食品などが並んでいる。

「新鮮な野菜が多いな」

「季節によって並ぶものが違うから、見ているだけでも楽しいわよ」

美紀は野菜を手に取りながら、生産地や表示を確かめていた。

「同じ野菜でも、作っている人や地域によって違いがあるのね」

「そうだな。値段だけを見ていたら、気づかないこともある」

誠は商品の表示を眺めた。

原材料、産地、製造者、保存方法。普段はあまり気に留めなかった情報が、今は少し違って見える。

「食べるものを選ぶというのは、単においしそうなものを買うことだけじゃないんだな」

「そうね。でも、難しく考えすぎる必要もないと思うわ。家計や好みもあるし、無理なく続けられることが一番よ」

美紀の言葉に、誠はうなずいた。

健康を意識するあまり、食事が窮屈になってしまっては本末転倒だ。毎日続けるものだからこそ、楽しさも大切にしたい。

その日の夕食は、直売所で買った野菜を使った料理になった。

食卓を囲みながら、誠は美紀に尋ねた。

「そういえば、君は毎日の献立をどうやって考えているんだ?」

「冷蔵庫にあるものを見て、季節の野菜を取り入れて、あとは食べたいものを考えるだけよ」

「ずいぶん簡単に言うな」

「簡単じゃない日もあるわよ。でも、毎日のことだから、あまり気負わないようにしているの」

誠は、その言葉に納得した。

健康のために食べることと、食事を楽しむことは、決して相反するものではない。むしろ、食べることを楽しめるからこそ、日々の習慣として続けられるのかもしれない。

「これからは、俺も買い物を手伝うよ」

「本当? それなら、次は一緒に献立を考えてもらおうかしら」

「それは少し難しそうだな」

二人の笑い声が食卓に広がった。


その夜、誠は書斎で健康について書かれた本を開いていた。

食事についての章には、栄養素の働きや食事のバランス、食生活を整えるための基本的な考え方が書かれている。

しかし、誠の心に残ったのは、難しい栄養学の説明ではなかった。

食事は、毎日繰り返される生活の一部であるということだった。

何を食べるか。どのように食べるか。誰と食べるか。

その積み重ねが、自分の暮らしをつくっている。

これまで誠は、健康のために何かを始めようとすると、つい特別な方法を探していた。高価な食品を買うことや、新しい健康法を試すことが、前向きな行動だと思っていたのかもしれない。

けれど、朝食をきちんと食べること。昼食の内容を少し考えること。夕食を家族と囲むこと。

そうした当たり前のことにも、見直す価値がある。

もちろん、食事だけで健康のすべてが決まるわけではない。体調や年齢、生活環境によって必要なものは異なる。持病や食事制限がある場合には、医師や管理栄養士などの専門家に相談することも大切だ。

誠は本を閉じ、リビングにいる美紀のところへ向かった。

「今日はありがとう。食事のこと、少し分かった気がするよ」

「何か勉強したの?」

「いや、君の話を聞いていただけだ」

「それなら、これからも一緒に考えましょう」

美紀は穏やかに笑った。

誠は思った。

食べることは、ただ空腹を満たすことではない。自分の身体をいたわり、家族との時間をつくり、明日を迎えるための大切な営みなのだ。

健康を考えるということは、特別な何かを探すことだけではない。

毎日の食卓に、もう一度目を向けることから始めてもいい。

そう思うと、明日の朝食が少し楽しみになった。

そして、もう一つ気になっていることがあった。

最近、朝は気持ちよく起きられる日が増えたものの、夜中に目が覚めてしまうことがある。仕事のことを考え始めると、なかなか眠れない夜もあった。

食事を見直すように、睡眠についても考える必要があるのかもしれない。

誠は寝室の時計を見た。

今夜は、少し早めに休むことにしよう。


今回の気づき

  • 健康的な食生活の基本は、特定の食品に偏らず、主食・主菜・副菜を意識して多様な食品を組み合わせること。
  • 食材を選ぶときは、産地や原材料、製造者などにも目を向ける。
  • 食事は栄養をとるだけでなく、家族や大切な人との時間を育むものでもある。
  • 完璧を目指すより、楽しみながら無理なく続けることが大切。

次回予告

第14話「眠れない夜に気づいたこと」

夜中に目が覚め、仕事のことを考えてしまう誠。睡眠時間だけでなく、眠る前の過ごし方や日中の生活にも目を向け始める。健康を支える「休むこと」の意味を、改めて考える。


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