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小説

連載小説【健やかに生きるということ】(12/50)

第12話 歩くことから始めよう

 朝の空気が、少しずつ冷たさを増していた。

 佐伯誠は、玄関でスニーカーのひもを結びながら、腕時計に目をやった。午前七時。以前の自分なら、まだ新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる時間だった。

「準備できた?」

 美紀が、薄手の上着を羽織って玄関に現れた。

「ああ。今日は少し遠くまで歩いてみようか」

「いいわね。でも、最初から張り切りすぎないでね」

 妻の言葉に、誠は苦笑した。

「分かっているよ。昔みたいに、いきなり長距離を歩くつもりはない」

 以前の誠は、運動といえば、休日にまとめて行うものだと思っていた。平日は仕事で忙しい。だから休日くらいはゆっくり休みたい。そんな考えが、いつの間にか習慣になっていた。

 しかし、第十一話で朝の光を浴びるようになってから、少しずつ朝の時間の使い方が変わってきた。

 カーテンを開ける。外の空気を吸う。できる日は、近所を歩いてみる。

 どれも特別なことではない。それでも、朝の時間に余裕が生まれると、一日の始まり方まで違って感じられた。

 家を出ると、住宅街の木々が朝日に照らされていた。通勤する人、自転車に乗る学生、犬を連れて歩く人。それぞれの朝が、静かに動き始めている。

「こうして歩いていると、普段は気づかないことが多いな」

 誠が言った。

「そうでしょう。車で通り過ぎるだけでは見えないものもあるのよ」

 美紀は道端に咲く小さな花に目を向けた。

 しばらく歩くと、近所の公園に着いた。園内には、犬を連れた人や、ベンチで新聞を読む人がいる。遊歩道では、何人かの年配者がゆっくりと歩いていた。

 その中に、誠の目を引く男性がいた。

 白髪交じりの髪に、落ち着いた表情。派手なスポーツウェアではなく、普段着に近い服装で、一定のリズムを保ちながら歩いている。

 男性は二人に気づくと、軽く会釈した。

「おはようございます。最近、よくお見かけしますね」

 誠が挨拶を返すと、男性は穏やかに笑った。

「おはようございます。私はこの公園を、ほぼ毎朝歩いているんですよ」

「毎朝ですか。すごいですね。どのくらい歩かれるんですか?」

「日によって違いますよ。調子のいい日は少し長く、疲れている日は短く。それだけです」

 男性はそう言って、歩く速度を少し落とした。

「以前は、もっと頑張って歩いていたんです。でも、あるとき気づいたんですよ。歩くことが目的になってしまって、景色も楽しめていない。これでは続かないな、と」

 その言葉に、誠は思わずうなずいた。

 仕事でも、目標を決め、数字を追い、成果を出すことを求められてきた。何をするにも、効率や結果を考える癖が身についている。

 健康のために歩くとなれば、距離や歩数、消費カロリーを気にしてしまう。いつの間にか、散歩まで仕事のように考えていたのかもしれない。

「歩くときに、何か気をつけていることはありますか?」

 誠が尋ねた。

「そうですね。まずは無理をしないこと。それから、自分の歩きやすい速さで歩くことです。息が苦しくなるほど頑張る必要はありません。体調に合わせて、少しずつ習慣にしていけばいいんです」

 男性は、足元を確かめるように歩きながら続けた。

「歩くことは、特別な道具がなくても始められますからね。ただし、体調や持病によっては注意も必要です。痛みや息切れなど、気になることがあれば無理をせず、医師に相談することも大切ですよ」

「なるほど。毎日、決めた距離を歩かなければいけないと思っていました」

「そんなことはありません。今日は十分歩いたと思えば、そこで終わりにすればいい。大切なのは、明日も歩いてみようと思えることです」

 誠は、その言葉を心の中で繰り返した。

 明日も歩いてみようと思えること。

 それは、これまでの自分にはなかった考え方だった。

 男性と別れたあと、二人は公園のベンチに腰を下ろした。

「いい話を聞いたわね」

 美紀が言った。

「ああ。健康のために何かを始めると、つい頑張らなければいけないと思ってしまう。でも、続けられなければ意味がないんだな」

「そうね。毎日できなくてもいいと思うわ。雨の日もあるし、忙しい日もあるもの」

「仕事も同じだったのかもしれないな。いつも成果を求めて、休むことや立ち止まることを忘れていた」

 誠は、公園の木々を眺めた。

 枝の間から差し込む朝の光が、地面に小さな模様をつくっている。風が吹くたびに、その模様がゆっくりと揺れていた。

「そういえば、最近、朝に歩くようになってから、気持ちに少し余裕ができた気がする」

「私もよ。あなたとこうして話しながら歩けるのが、うれしいの」

 美紀の言葉に、誠は少し驚いた。

 健康のために始めた散歩だった。けれど、美紀にとっては、夫婦で一緒に過ごす時間でもあったのだ。

「今まで、休日も仕事のことばかり考えていたからな」

「それが悪いとは言わないわ。でも、これからは仕事以外の時間も大切にしてほしいの」

 美紀はそう言って、穏やかに笑った。

 帰り道、誠は少しだけ遠回りを提案した。

「もう少し歩いてみないか。あの角を曲がると、川沿いの道に出られるんだ」

「いいわよ。でも、疲れたらすぐに休みましょう」

「ああ。今日は距離を競う日じゃないからな」

 二人はゆっくりと歩き始めた。

 川沿いの道には、朝の光を受けて水面がきらきらと輝いていた。鳥の声が聞こえ、遠くから子どもたちの笑い声が届く。

 誠は、こうした景色をゆっくり眺めるのが、ずいぶん久しぶりだと感じた。

 歩くことは、身体を動かすことだけではない。普段は見過ごしている風景に目を向け、自分の気持ちを確かめ、誰かと会話をする時間でもある。

 帰宅後、誠はスマートフォンの健康管理アプリを開いた。歩数は、以前より少し増えていた。

 しかし、今日は数字を見ても、特別な達成感はなかった。

 それよりも、公園で出会った男性の言葉や、美紀と交わした会話のほうが、心に残っていた。

 その日の夕食後、誠はカレンダーを開き、週末の予定を確認した。

「来週も、朝に歩こうと思う。無理のない範囲でな」

「いいわね。天気がよければ、少し違う道を歩いてみましょう」

「ああ。信州へ行く前に、歩くことに慣れておくのもいいかもしれない」

 美紀はうれしそうにうなずいた。

 信州への旅は、まだ少し先のことだった。けれど、誠の中では、その旅への期待が少しずつ膨らんでいた。

 山の景色を眺め、土地の空気を感じ、そこで暮らす人たちの話を聞く。

 そのためにも、まずは自分の足で歩くことから始めてみよう。

 誠は、翌朝の天気予報を確認してから、スマートフォンを置いた。

 健康のために、何か特別なことを始める必要はないのかもしれない。

 今日より少しだけ歩いてみる。
 いつもより少しだけ周囲を見渡してみる。
 そして、無理なく続けられる方法を探していく。

 その小さな積み重ねが、これからの人生を支えていく。

 窓の外では、夜の静けさが街を包み始めていた。

 明日の朝も、二人で歩けるだろうか。

 誠は、そんなことを考えながら、穏やかな気持ちで眠りについた。


今回の気づき

  • 歩くことは、特別な道具がなくても始められる身近な運動。
  • 距離や歩数にこだわりすぎず、自分の体調や体力に合わせて無理なく続けることが大切。
  • 散歩は、景色を楽しみ、人と会話し、自分の時間を取り戻す機会にもなる。

健康づくりは、頑張り続けることではなく、続けられることから始まる。

次回予告

第13話「食べることは、生きること」

朝の散歩が少しずつ習慣になった誠。ある日の食卓で、美紀が何気なく口にした一言をきっかけに、誠は毎日の食事について考え始める。食べることの意味と、身体をつくる食生活の基本を見つめ直していく。


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