連載小説【健やかに生きるということ】(11/50)
第11話 朝の光を浴びるということ
朝、目が覚めても、すぐには起き上がれない。
五十五歳になった佐伯誠は、そんな朝が増えたことを自覚していた。
目覚まし時計が鳴る。手を伸ばして止める。もう少しだけ、と布団の中で目を閉じる。ようやく起き上がる頃には、出勤までの時間が気になり始めている。
洗面所に向かい、顔を洗い、着替える。朝食を済ませると、新聞を読む間もなく家を出る。
それが、長年続けてきた朝の習慣だった。
「おはよう。今日も早いのね」
台所にいた妻の美紀が声をかけた。
「いつもどおりだよ。会議があるからな」
誠はそう答えながら、玄関で靴を履いた。
「そういえば、先週の話だけど」
「ん?」
「信州への旅行、いつ頃にする?」
美紀の言葉に、誠は一瞬、手を止めた。
健康について考えるようになってから、二人でどこかへ出かけようと話していた。仕事の予定を確認すると言ったまま、まだ具体的な日程を決めていなかった。
「今週末にでも、少し調べてみるよ」
「無理のない日程にしましょうね」
美紀は笑顔でそう言った。
その表情を見て、誠はふと思った。
自分は毎朝、何をそんなに急いでいるのだろう。
もちろん、仕事には責任がある。遅刻するわけにもいかない。しかし、朝の時間を少し変えるくらいなら、できるのではないか。
その日、誠はいつもより少し早く帰宅した。
夕食の後、リビングでスマートフォンを眺めていると、健康に関する記事が目に留まった。
「朝の光を浴びることが、生活リズムを整える第一歩になる……か」
画面には、朝の光と体内時計について書かれていた。
誠は記事を読み進めた。
人の身体には、睡眠や目覚め、体温などに関わる約二十四時間周期のリズムがある。これを体内時計と呼ぶ。朝の光は、その体内時計を調整する重要な手がかりになるという。
「朝の光、ねえ」
誠がつぶやくと、美紀が食器を片づけながら振り返った。
「どうしたの?」
「朝、光を浴びると生活リズムを整える助けになるらしい」
「そうなの。確かに、朝の光って気持ちがいいわよね」
「でも、通勤前にそんな時間はないよ」
「時間がないなら、ほんの少しでもいいんじゃない?」
美紀は窓の外を見た。
「朝、カーテンを開けるだけでも違うと思うわ。天気のいい日は、少し外に出てみるとか」
誠は考えた。
これまで健康のために何かをしようとすると、運動を始める、食生活を変える、健康食品を取り入れるなど、何か特別なことをしなければならないと思っていた。
しかし、朝の光を浴びることなら、特別な道具も費用も必要ない。
翌朝、誠は目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。
いつもなら、布団の中でスマートフォンを手に取るところだ。
しかし、その日は起き上がり、カーテンを開けてみた。
窓の向こうには、朝の街並みが広がっていた。
空は薄い青色に変わり始め、遠くの山の稜線が少しずつ明るくなっている。
「こんな景色、毎朝見ていたはずなのにな」
誠はしばらく窓辺に立っていた。
いつもなら、朝の景色を眺める余裕などなかった。いや、正確には、余裕がなかったのではなく、自分でその時間をつくろうとしていなかったのかもしれない。
「おはよう」
美紀が起きてきた。
「今日は早いのね」
「ちょっと、朝の光を浴びてみようと思って」
「いいじゃない」
美紀は笑いながら、窓のそばに立った。
二人で並んで外を眺める。
それだけのことだった。
けれど、誠にはいつもと違う朝に感じられた。
その日から、誠は朝の習慣を少し変えることにした。
起きたらカーテンを開ける。天気がよければ、玄関先まで出て外の空気を感じる。時間に余裕がある日は、近所を十分ほど歩いてみる。
もちろん、毎日できたわけではない。
雨の日もあれば、仕事の都合で早く家を出なければならない日もある。疲れていて、いつもどおりの朝になることもあった。
それでも、できなかった日を気にしすぎないようにした。
大切なのは、完璧に続けることではなく、無理なく続けられる形を見つけることだと思ったからだ。
ある朝、会社の同僚である田中に、その話をした。
「最近、朝に少し歩いているんだ」
「へえ。健康のためですか?」
「そうだね。朝の光を浴びると、体内時計を整える助けになるらしい」
田中はうなずいた。
「私も、朝はスマートフォンを見ている時間が長いですね。起きてすぐニュースを確認してしまう」
「私も以前はそうだったよ。気づくと、布団の中で何分も画面を見ている」
「朝から情報を詰め込むより、外の空気を感じる方がよさそうですね」
二人は笑った。
誠は、健康について考えるようになってから、少しずつ自分の行動が変わってきたことに気づいていた。
以前は、健康に関する情報を集めることが、健康への取り組みだと思っていた。
しかし、情報を知っていることと、実際に行動することは違う。
朝の光を浴びる。少し歩く。朝食をとる。夜は遅くまで画面を見続けない。
どれも特別なことではない。
けれど、そうした小さな習慣が、日々の生活を支えているのかもしれない。
週末、誠は美紀と一緒に近所の公園まで歩いた。
木々の間から朝日が差し込み、芝生には朝露が残っていた。
「こうして朝に歩くのも、久しぶりね」
美紀が言った。
「そうだな。休日は昼近くまで寝ていることもあったから」
「仕事で疲れていたのは分かるけれど、これからは少しずつ変えていきましょう」
誠はうなずいた。
「信州に行ったら、朝の景色もゆっくり眺めたいな」
「いいわね。山の朝は、きっと気持ちがいいでしょうね」
二人は歩きながら、旅行の日程について話し始めた。
そのとき、誠は思った。
健康のために何かを始めるということは、ただ身体に良いことをするだけではない。
自分の時間を取り戻し、身近な人と過ごす時間を大切にすることでもあるのだ。
朝の光は、毎日変わらず窓の向こうにある。
けれど、それを眺めるかどうかは、自分次第だった。
人生の折り返し地点に立った今、誠はようやく、その当たり前のことに気づき始めていた。
明日の朝も、まずはカーテンを開けてみよう。
そんな小さな約束を、誠は自分自身と交わした。
今回の気づき
朝の光は、体内時計を整えるための大切な手がかり。健康づくりは、特別なことを始めるよりも、毎日の小さな習慣を見直すことから始められる。
※朝の光を浴びることは生活リズムを整える助けになりますが、睡眠や体調には個人差があります。無理のない範囲で取り入れましょう。
次回予告
第12話「歩くことから始めよう」
朝の散歩を始めた誠。ある日、公園で出会った一人の男性との会話から、歩くことの意味を改めて考えることになる。

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