連載小説【健やかに生きるということ】(6/50)
第6話 情報が多すぎる時代の健康法
50代からの健康情報の選び方――何を信じ、何を暮らしに取り入れるのか
1.健康のために調べ始めたはずだった
佐伯誠が健康について意識するようになってから、スマートフォンを見る時間が少し変わった。
以前なら、仕事のメールや経済ニュース、取引先の情報を確認するのが中心だった。ところが最近は、健康に関する記事や動画にも目が向くようになっていた。
五十五歳という年齢。健康診断で目にした数値。階段を上ったときの息切れ。夕方になると感じる疲れ。
気になることが増えれば、知りたいことも増えていく。
「五十代から始める健康習慣」
「疲れにくい身体をつくる食生活」
「毎日続けたい、身体にいい食品」
検索するたびに、新しい情報が見つかった。
ある記事では、朝食をしっかり食べることが勧められていた。別の記事では、食事の時間を空けることが紹介されている。運動についても、歩くことを勧めるものがあれば、筋力トレーニングの重要性を強調するものもある。
どれも、それらしく書かれていた。
専門家らしい人物が登場し、図やグラフを使って説明している。利用者の体験談が添えられていることもあった。
誠は、最初のうちは熱心に読み比べていた。
仕事で情報を集め、比較し、判断することには慣れている。複数の資料を確認し、条件を整理すれば、よりよい結論にたどり着けるはずだった。
しかし、健康情報については、どうも勝手が違った。
一つの記事を読めば、別の記事が気になる。ある食品を調べれば、似たような商品がいくつも見つかる。健康にいいとされる習慣を一つ覚えると、今度は、それを否定するような意見が目に入る。
画面をスクロールする指が止まらなかった。
気づけば、夜の十一時を過ぎていた。
「……もう、こんな時間か」
誠はスマートフォンを伏せた。
健康のために調べていたはずなのに、寝る時間が遅くなっている。
何かを知るたびに安心できると思っていた。ところが、情報が増えるほど、自分が何をすればいいのか分からなくなっていた。
翌朝、目覚まし時計の音で目を覚ました誠は、いつもより身体が重いことに気づいた。
昨夜、遅くまで画面を見ていたせいかもしれない。
「健康に気をつけようとして、これじゃ本末転倒だな」
苦笑しながら起き上がったものの、頭の片隅には、昨夜読んだ記事の内容が残っていた。
いったい、何を信じればいいのだろう。
その問いが、会社へ向かう電車の中でも消えなかった。
2.職場で始まった健康情報の交換会
昼休み、誠は同僚の田中と食堂で向かい合っていた。
田中は誠より二歳年上で、同じように管理職として働いている。最近、二人の会話には、仕事の話だけでなく、健康や定年後の暮らしに関する話題も増えていた。
「佐伯さん、最近、何か健康のために始めた?」
田中が味噌汁を飲みながら尋ねた。
「始めたというか、いろいろ調べているところだよ」
「何を調べているの?」
「食事とか、運動とか。健康食品も少しね」
誠が答えると、田中は待っていましたとばかりに身を乗り出した。
「それなら、いいものがあるんだ。知り合いが勧めてくれたんだけど、毎日飲んでいる人が多いらしい。今度、教えてあげようか」
「へえ、どんなものなんだ?」
「詳しいことは、これから調べるんだけどね。身体にいいって評判なんだよ」
田中は悪気なく笑った。
誠も、以前なら、その話に興味を持ってすぐに検索していたかもしれない。ところが、今は少し違った。
「それは、どういうところがいいと言われているんだ?」
「うーん……。何となく、よさそうなんだよ。口コミも多いし」
その答えに、誠は困ったように笑った。
「実は僕も、最近、似たようなことを考えていてね。情報が多すぎて、何を基準に選べばいいのか分からなくなってきたんだ」
「確かに。インターネットを見ていると、どれもよく見えるからな」
田中は箸を置いた。
「でも、何もしないよりは、何か始めたほうがいいんじゃないか?」
「そうだな。ただ、よさそうだからという理由だけで始めるのも、少し違う気がするんだ」
誠は、自分の考えを確かめるように話した。
健康に関心を持つこと自体は、悪いことではない。知らなかった知識を得ることも、生活を見直すきっかけになる。
ただ、情報を集めることと、正しい判断ができることは、同じではないのだろう。
仕事では、資料に書かれた数字の出どころを確認する。調査の条件が違えば、単純に比較できないことも知っている。
それなのに、健康のことになると、「身体にいい」という言葉だけで、つい納得しそうになる。
自分の身体に関わる話だからこそ、安心したい気持ちが先に立つのかもしれなかった。
「少し、選び方から考え直してみるよ」
誠が言うと、田中はうなずいた。
「そうだな。俺も、もう少し調べてみるか」
二人は食事に戻った。
誠の中では、健康情報を集めることよりも、その情報をどう見極めるかという問題が、少しずつ大きくなり始めていた。
3.妻が教えてくれた、情報との距離の取り方
その夜、誠は夕食のあともスマートフォンを見ていた。
健康食品について調べていると、広告が目に入った。商品を紹介するページには、素材へのこだわりや利用者の感想が並んでいる。
別のページを開くと、今度は違う商品が紹介されていた。
価格も、原材料も、説明の仕方もさまざまだった。
「何を基準に比べればいいんだろうな……」
思わず口にすると、向かいで家計簿をつけていた美紀が顔を上げた。
「また健康のことを調べているの?」
「ああ。調べれば調べるほど、分からなくなってきてね」
誠はスマートフォンを妻に見せた。
「どれも、身体によさそうに書いてあるんだ。でも、何が本当に自分に必要なのかが分からない」
美紀は画面を少し眺めてから、静かに尋ねた。
「その商品について、何が知りたいの?」
「何が知りたいって……。健康にいいかどうか、かな」
「それなら、まず、どうしてそれが必要だと思ったのかを考えてみたら?」
誠は妻を見つめた。
「必要だと思った理由?」
「そう。健康診断の数値が気になるなら、まずは先生に相談することが大切でしょう。疲れやすさが気になるなら、生活のどこに原因がありそうか振り返ってみる。何かを買うのは、そのあとでもいいんじゃない?」
美紀の言葉は、誠が忘れていた順番を思い出させた。
健康診断の結果を見たとき、彼はすぐに改善方法を探そうとした。食事を変え、運動を増やし、何か身体によさそうなものを取り入れれば、安心できるような気がしていた。
けれど、まず自分の状態を知ることが先だった。
「確かに、何のために調べているのか、途中で分からなくなっていたかもしれない」
「情報を集めること自体が目的になっていたのかもね」
美紀は家計簿を閉じた。
「私も、料理のことを調べると、いろいろな情報が出てくるわ。でも、全部を取り入れることはできないでしょう。だから、家族の食事に合うか、無理なく続けられるか、自分で確かめながら考えるようにしているの」
「なるほどな」
誠はスマートフォンの画面を消した。
「健康情報も、同じように考えればいいのかもしれないな」
「そうだと思う。誰かに合った方法が、必ず自分にも合うとは限らないもの」
その言葉を聞きながら、誠は少しずつ頭の中を整理していった。
情報を読むときには、誰が発信しているのか、何を根拠に説明しているのかを確かめる。体験談だけで判断せず、必要なら公的機関や医療機関などの信頼できる情報も確認する。
そして、健康食品を選ぶ場合も、広告の印象だけで決めない。原材料や表示、価格、摂取方法、自分の生活に無理なく取り入れられるかどうかを確認する。
それは、特別に難しいことではない。
ただ、何かを早く解決したいと焦る気持ちを、少し抑える必要があった。
「明日から、夜遅くまで調べるのはやめよう」
誠が言うと、美紀は笑った。
「それが一番、すぐにできそうね」
「耳が痛いな」
二人は顔を見合わせた。
健康のために、まず一つやめることを決める。
誠にとって、それは意外な始まりだった。
4.健康情報にも、確かめる習慣を
翌日、誠は通勤電車の中で、健康に関する記事を一つ開いた。
以前なら、見出しに興味を引かれれば、そのまま読み進めていた。しかし、その日は少し違った。
記事の発信元を確認する。説明の根拠は示されているか。個人の体験談を、誰にでも当てはまる話のように扱っていないか。
そして、何よりも、自分が知りたいことに答えている記事なのかを考えた。
途中で、気になる健康食品の紹介ページが表示された。
「これを飲めば、すべて解決する」
そんな印象を与える表現が目に留まった。
誠は、すぐには購入ページを開かなかった。
食品にはそれぞれ原材料や特徴がある。けれど、健康食品は医薬品とは異なり、病気の治療を目的とするものではない。商品を選ぶときには、何が含まれているか、どのような表示がされているかを確かめ、過度な期待を持たないことが大切だ。
持病がある場合や薬を服用している場合などは、利用する前に医師や薬剤師に相談したほうがよいこともある。
そうした基本を、誠は改めて意識した。
仕事では、慎重に判断することを部下にも求めている。根拠の分からない情報を、そのまま報告書に載せることはしない。
ならば、自分の健康についても、同じように考えればいい。
その日の昼休み、誠は健康診断の結果をもう一度取り出した。
次回、医師に相談するときに聞きたいことを、手帳に書き出してみる。
疲れやすさについて。生活習慣で見直せることについて。食事や運動について、今の自分に合った取り組み方について。
健康食品を選ぶかどうかは、そのあとで考えればいい。
何かを買うことより先に、確かめるべきことがある。
そう思うと、頭の中に広がっていた情報の山が、少しだけ小さくなったような気がした。
5.知らないことを、知らないままにしない
その週末、誠と美紀は近所の公園を歩いていた。
木々の葉は少しずつ色づき、足元には落ち葉が増えている。二人は急がず、景色を眺めながら歩いた。
「最近、スマートフォンを見る時間が減ったわね」
美紀が言った。
「夜遅くまで調べるのはやめたよ。調べたいことを決めてから、必要な情報を見るようにしている」
「それはいい変化ね」
「ただ、まだ分からないことも多いけどな」
誠は苦笑した。
健康に関する知識は、一度学べば終わりというものではない。身体の状態も、生活環境も、人それぞれ違う。新しい情報が出てくることもある。
だからといって、すべてを知ろうとする必要はないのだろう。
大切なのは、分からないことを分かったふりをしないこと。そして、自分だけでは判断できないことは、専門家に相談すること。
「健康食品についても、もう少し勉強してみようと思う」
誠が言うと、美紀はうなずいた。
「いいと思うわ。でも、急いで決めなくてもいいんじゃない?」
「ああ。納得できるものがあれば考えるし、必要がなければ無理に買うこともない」
そう口にしたとき、誠は自分の中で何かが変わり始めているのを感じた。
以前の自分は、健康に不安を感じると、すぐに解決策を探そうとしていた。答えを早く見つけることが、安心につながると思っていたのだ。
しかし、健康については、焦って一つの答えに飛びつく必要はない。
自分の身体の状態を知る。信頼できる情報を確かめる。毎日の生活を振り返る。そして、無理なく続けられることから始める。
その繰り返しが、自分に合った健康との付き合い方につながっていくのだろう。
公園の出口が見えてきた。
「帰ったら、昼ご飯は何にする?」
美紀が尋ねた。
「そうだな。今日は魚でも買って帰ろうか」
「いいわね。野菜も見てみましょう」
二人は並んで歩き出した。
健康について、すべてを知ることはできない。それでも、知ろうとする姿勢は持ち続けられる。
そして、何を選ぶかだけでなく、どう選ぶかを考えることもできる。
誠は、これから健康食品について調べるときにも、今日の気づきを忘れないでおこうと思った。
値段や評判だけではなく、原材料や製造方法、商品の表示。その背景にどんな人がいて、どのような思いでつくられているのか。
まだ知らないことは多い。
けれど、焦らず、一つずつ確かめていけばいい。
その先に、自分が本当に納得できる選択があるかもしれない。
今回の気づき
健康情報があふれる時代には、情報をたくさん集めることより、信頼できる情報を見極めることが大切です。発信元や根拠を確認し、体験談や広告だけで判断しないこと。健康食品も、原材料や表示、利用する目的を確かめ、過度な期待を持たずに選びましょう。自分の症状や健康診断の結果については、必要に応じて医師などの専門家に相談することが大切です。
次回予告 第7話「先輩が教えてくれた定年後の現実」
健康について考え始めた誠は、仕事の進め方や休日の過ごし方も少しずつ変えようとしていた。そんなある日、久しぶりに会社の先輩と再会する。定年を迎えた先輩の暮らしは、誠が想像していたものとは少し違っていた。仕事を離れたあと、人は何を支えに生きていくのだろうか。

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