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連載小説【健やかに生きるということ】(2/50)

第2話 いつから、休むことが下手になったのだろう

1.休日の朝、目が覚めても

土曜日の朝、佐伯誠は午前六時二十分に目を覚ました。

目覚まし時計は鳴っていない。会社へ行く必要もない。昨夜は美紀から「明日はゆっくり寝ていていいのよ」と言われていた。

それなのに、目が覚めてしまった。

誠は布団の中で天井を見つめた。

もう少し眠ろうと思ったが、頭の中では月曜日の会議のことが動き始めていた。先週、部下に修正を頼んだ資料はどうなっただろう。取引先への回答は、あの内容で問題なかっただろうか。来月の計画についても、そろそろ方向性を決めなければならない。

一つ考えると、次のことが浮かんでくる。

「休みの日くらい、仕事のことは忘れよう」

そう思って寝返りを打った。

しかし、忘れようとすればするほど、仕事のことが気になった。

結局、誠は布団から出た。

洗面所で顔を洗い、台所へ向かう。窓の外は明るく、庭先の木々が朝の風に揺れていた。

平日なら、この時間にはもう着替えを済ませ、新聞に目を通しながら朝食を待っている。休日の朝は、もっとゆっくり過ごしてもいいはずだった。

それなのに、何もしないでいることが落ち着かない。

誠は湯を沸かし、コーヒーをいれた。

スマートフォンを手に取る。

会社からの連絡はない。メールも届いていない。

それを確認して、少し安心した。

ところが、安心した次の瞬間、月曜日までに確認しておくべき資料が頭に浮かんだ。

「少しだけなら、見てもいいか」

誠は自分に言い訳するようにつぶやき、書斎へ向かった。

休日は、まだ始まったばかりだった。

2.休んでいるはずなのに

午前八時。

誠は机に向かい、パソコンを開いていた。

確認するだけのつもりだった資料には、思った以上に修正が必要な箇所が見つかった。

数字を確かめ、文章を直し、関連する資料を探す。気がつけば、画面にはいくつものファイルが開いていた。

「ここまでやっておけば、月曜日が楽になる」

そう考えると、手を止める理由がなくなった。

十時を過ぎた頃、美紀が書斎の入口から顔を出した。

「あなた、まだ仕事しているの?」

「うん。少し確認したいことがあってね」

「今日は休みでしょう?」

「分かってるよ。あと少しだから」

美紀は何か言いたそうにしたが、結局、小さく息をついて台所へ戻っていった。

誠はその後ろ姿を見ながら、少し申し訳ない気持ちになった。

休日に仕事をするのは、今回が初めてではない。むしろ、ここ数年は珍しくもなかった。

以前は、休日に出勤することもあった。仕事が立て込んでいれば、自分が動けばいい。責任ある立場になれば、誰かに任せきりにはできない。

それが誠の信条だった。

部下に無理をさせるくらいなら、自分がやる。

問題が起きる前に気づき、対処する。

周囲に迷惑をかけないよう、先回りして準備する。

そうした積み重ねが、今の自分をつくってきたのだと思っていた。

実際、それによって助けられた仕事も多い。

だが、いつからだろう。

仕事を終えても、心まで仕事から離れられなくなったのは。

誠は画面から目を離し、肩を回した。

首筋が張っている。背中も重い。

椅子から立ち上がると、腰に鈍い違和感があった。

「少し運動したほうがいいかな」

そう思いながら、彼は再び椅子に座った。

3.妻との約束

昼食のあと、美紀が一枚のチラシを食卓に置いた。

「ねえ、来週の日曜日、ここへ行ってみない?」

チラシには、郊外にある小さな美術館と、その周辺の散策路が紹介されていた。

「ここ、前にテレビで見たことがあるの。庭もきれいだし、近くに評判のいいお店もあるみたい」

誠はチラシを手に取った。

確かに、悪くない場所だった。車で一時間ほど。朝から出かければ、夕方には帰ってこられる。

「いいんじゃないか」

「本当? じゃあ、行こうね」

美紀の顔が明るくなった。

その表情を見て、誠は少し胸が痛んだ。

以前から、美紀はこうした誘いを何度もしてくれていた。

近くの温泉に行かないか。季節の花を見に行かないか。たまには二人で外食しないか。

そのたびに誠は、仕事の予定を理由に返事を先延ばしにしてきた。

忙しい時期が過ぎたら。

大きな案件が片づいたら。

もう少し余裕ができたら。

そのうち、いつでも行ける。

そう思っていた。

けれど、仕事には終わりがない。

一つの案件が終われば、次の課題が生まれる。責任が重くなるほど、考えなければならないことも増えていく。

「あなた、昔はもっと気軽に出かけていたわよね」

美紀が言った。

「そうだったかな」

「そうよ。若い頃は、行き先も決めずに車で出かけたりしたじゃない」

誠は苦笑した。

確かに、そんな時期があった。

休日の朝、思い立って車に乗り、知らない町の食堂で昼食を食べたこともある。道に迷い、予定とは違う場所にたどり着いたこともあった。

当時は、それも楽しかった。

今は、出かける前から帰宅時間や翌日の予定を考えてしまう。

せっかくの休日なのに、頭の中ではいつも何かを計算している。

「最近、疲れているの?」

美紀の問いに、誠はすぐには答えられなかった。

疲れているかと聞かれれば、疲れている。

しかし、働けないほどではない。食事もできるし、会社へ行けば仕事もこなせる。

だから、まだ大丈夫だと思っていた。

「まあ、年齢もあるのかな」

誠がそう答えると、美紀は静かに言った。

「年齢のせいにして、無理を続けなくてもいいんじゃない?」

その言葉は、誠の胸に残った。

4.何もしないことへの不安

午後、誠はようやくパソコンを閉じた。

美紀は買い物に出かけていた。

久しぶりに時間ができた。何をしてもいい。好きな本を読んでもいいし、散歩に出てもいい。

しかし、いざ自由な時間を前にすると、何をすればいいのか分からなかった。

テレビをつけてみたが、内容が頭に入ってこない。

本棚から読みかけの本を取り出したが、数ページで閉じてしまった。

スマートフォンを見ると、ニュースが次々に目に入る。経済の動き、企業の発表、仕事に関係する業界の話題。

気づけば、仕事に役立ちそうな記事を探していた。

誠はスマートフォンをテーブルに置いた。

自分は、何もしない時間が苦手なのだ。

何かをしていれば、少なくとも前へ進んでいる気がする。資料を整理すれば、仕事が片づく。知識を増やせば、いざというときに役立つ。

それに比べて、ただ休むことには、目に見える成果がない。

何もしないまま一日を終えると、時間を無駄にしたような気持ちになる。

その感覚は、いつから身についたのだろう。

入社したばかりの頃、誠は先輩からよく言われた。

「若いうちは、とにかく仕事を覚えろ。人より一歩先に動け」

その教えは、間違っていなかった。

仕事を覚え、経験を積み、責任を果たす。そうして努力を続けたからこそ、今の立場がある。

だが、若い頃に身につけた働き方を、五十五歳になった今も同じように続ける必要があるのだろうか。

誠は窓の外を見た。

近所の親子が、散歩をしていた。小さな子どもが道端で立ち止まり、何かを見つけたらしく、父親を呼んでいる。

父親は足を止め、子どもの目線に合わせてしゃがみ込んだ。

ほんの短い時間だった。

それでも、二人は何かを楽しそうに話していた。

誠は、その光景をしばらく眺めていた。

自分にも、あんな時間があったはずだ。

子どもが小さかった頃、公園で一緒に遊んだ。道端の虫を見つけて立ち止まったり、帰り道にアイスクリームを買ったりした。

当時は忙しかったはずなのに、今よりも時間を楽しんでいたような気がする。

いや、忙しかったからこそ、限られた時間を大切にしていたのかもしれない。

誠は、ゆっくり息を吐いた。

5.身体は、いつも先に知らせてくれる

夕方、誠は近所を歩くことにした。

特別な目的はない。

ただ、ずっと家の中にいるのも落ち着かなかった。

玄関を出て、住宅街の道をゆっくり進む。風は穏やかで、日差しも柔らかかった。

しばらく歩くと、小さな公園に差しかかった。

ベンチには、年配の男性が一人座っていた。近所で何度か見かけたことのある人だった。

「こんにちは」

誠が声をかけると、男性は顔を上げた。

「おや、佐伯さん。散歩ですか」

「ええ。少し歩こうと思いまして」

男性は笑った。

「いいですね。私も、以前は家でじっとしているほうが好きだったんですがね」

「何かきっかけがあったんですか?」

「退職してから、気づいたんですよ。仕事がなくなったら、思った以上に動かなくなってしまってね。最初は楽でよかったんですが、だんだん一日が長く感じるようになったんです」

男性は、公園の向こうに目を向けた。

「それで、毎日少し歩くことにしたんです。遠くまで行く必要はない。近所を一回りするだけでも、外の空気を吸うと気分が違いますから」

誠はうなずいた。

「なるほど」

「もちろん、歩けば何でも解決するわけじゃありません。でも、自分の生活を自分で整えることは大切だと思いますよ」

その言葉に、誠は先日の健康診断の結果を思い出した。

気になる数値があった。医師に相談しようとも思っていた。

しかし、それ以外にも、自分で見直せることはあるのかもしれない。

睡眠時間は足りているだろうか。

食事を急いで済ませていないだろうか。

休日にまで仕事を持ち込み、心を休ませる時間を失っていないだろうか。

誠は、これまで身体のことを、どこかで機械のように考えていたのかもしれない。

多少無理をしても、休めば元に戻る。

疲れても、仕事が片づけば落ち着く。

そうやって、身体が発している小さなサインを見過ごしてきた。

「ありがとうございます。私も、少しずつ歩いてみます」

誠がそう言うと、男性は穏やかに笑った。

「無理せず、続けられるくらいがいいですよ」

公園を離れた誠は、歩く速度を少し落とした。

急ぐ必要はない。

今日中に何かを成し遂げなくてもいい。

ただ、自分の足で歩き、周囲の景色を見て、風を感じる。

そんな時間を、いつの間にか忘れていた。

6.休むことも、仕事のうちなのか

夕食の席で、誠は美紀に散歩の話をした。

「近所の人に会ってね。退職してから、毎日歩くようにしているそうだ」

「いいわね。あなたも、少しずつ始めたら?」

「そうだな。いきなり何かを変えるのは難しいけど、できることからやってみようと思う」

美紀はうれしそうにうなずいた。

「それで十分だと思うわ」

食事を終えたあと、誠は自分から皿を片づけた。

「珍しいわね」

「たまにはね」

二人で笑った。

それだけのことだった。

しかし、誠は少し気持ちが軽くなるのを感じた。

休むことは、何もしないことではないのかもしれない。

身体を休める。心を落ち着かせる。家族と話す。外の空気を吸う。

そうした時間も、これからの人生を支えるために必要なのだろう。

仕事を大切にすることと、自分を大切にすることは、どちらか一つを選ぶものではない。

むしろ、長く働き続けるためにも、自分の状態を知り、無理をしすぎないことが大切なのではないか。

誠は、書斎の机に置いた健康診断の結果を思い出した。

近いうちに医師に相談しよう。

睡眠や食事のことも、少し見直してみよう。

そして、休日には仕事から離れる時間をつくろう。

決意と呼ぶには、まだ小さなものだった。

けれど、今の誠には、その小ささがかえって現実的に思えた。

長年の習慣を、一日で変えることはできない。

だからこそ、できることを一つずつ始めればいい。

7.月曜日の朝に向けて

日曜日の夜、誠は翌日の予定を確認していた。

以前なら、予定表を見ながら、会議の資料や部下への指示を細かく考え始めていたはずだ。

もちろん、準備は必要だ。

責任ある立場である以上、仕事をおろそかにするつもりはない。

ただ、今夜は確認する範囲を決めた。

明日の会議に必要な資料を一通り確認する。それが終わったら、パソコンを閉じる。

それ以上は、月曜日の自分に任せる。

そう決めて、誠は作業を始めた。

三十分ほどで確認は終わった。

いつもなら、もう少し先まで準備しておこうと考えるところだった。

しかし、誠はパソコンを閉じた。

「よし、今日はここまでだ」

口に出すと、不思議な気持ちになった。

仕事を残したまま終えることへの不安は、まだ消えていない。

それでも、明日の自分を信じてみようと思った。

寝室へ向かう途中、リビングで美紀が本を読んでいた。

「もう終わったの?」

「ああ。明日の準備はできたよ」

「じゃあ、少しお茶でも飲む?」

誠は時計を見た。

いつもなら、もう寝る時間を気にしていただろう。

「そうだな。少しだけ付き合おうかな」

二人は温かいお茶を飲みながら、来週の美術館の話をした。

どの道を通ろうか。昼食はどこで食べようか。帰りに直売所があれば、地元の野菜も見てみたい。

特別な話題ではない。

けれど、誠は久しぶりに、仕事の予定ではなく、自分たちが楽しみにできることを話していると感じた。

窓の外には、静かな夜が広がっていた。

明日になれば、また仕事が始まる。

責任も、課題も、簡単には減らないだろう。

それでも、これまでとまったく同じである必要はない。

休むことを覚えるのも、これからの自分に必要な仕事なのかもしれない。

誠は、湯飲みを両手で包んだ。

五十五歳になって、ようやく気づき始めたことがある。

頑張ることには慣れていた。

我慢することにも慣れていた。

けれど、自分をいたわることには、まだ慣れていなかった。

いつから、休むことが下手になったのだろう。

その答えは、すぐには見つからない。

ただ、これからは少しずつ、自分のための時間も大切にしてみよう。

誠はそう思いながら、妻と過ごす穏やかな夜を味わっていた。


今回の気づき

責任感を持って働くことは大切です。しかし、休むことは怠けることではありません。睡眠、食事、適度な運動、家族との時間など、日々の暮らしを整えることも、長く自分らしく生きていくための大切な土台です。

次回予告 第3話「健康診断の数字が教えてくれたこと」

机の上に置いた健康診断の結果を、改めて見つめる誠。数字が意味することを正しく理解するため、医師に相談することを決めます。目を背けていた自分の身体と、今度こそ向き合えるのでしょうか。


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