連載小説【健やかに生きるということ】(1/50)
第1話 健康は、失ってから考えるものなのか
1.鏡の中の自分
月曜日の朝、佐伯誠は洗面台の前で、いつもより少し長く鏡を見つめていた。
五十五歳。
自分では、まだそれほど年を取ったつもりはなかった。会社では管理職として働き、部下から相談を受けることも多い。取引先との難しい交渉も、長年の経験で何とか乗り切ってきた。住宅ローンの返済も、あと数年で終わる見通しが立っている。
人並みに働き、家庭を守り、ここまでやってきた。
そう思っていた。
しかし、鏡に映る自分の顔には、以前とは違う何かがあった。
目の下に残る薄い影。少し白くなった髪。口元に刻まれた、昔にはなかった線。
「まあ、五十五にもなれば、こんなものか」
誠は独り言をつぶやき、蛇口を閉めた。
昨夜は十一時に寝たはずなのに、朝から身体が重い。目覚まし時計が鳴る前に目は覚めていたが、布団から出るまでに時間がかかった。
以前なら、多少寝不足でも気にならなかった。出張が続いても、週末に一度休めば元に戻った。
ところが、ここ数年は違う。
疲れが翌日まで残ることがある。階段を上ったあと、以前より息が上がることもある。健康診断の結果が届いても、封筒を開けるのはいつも後回しだった。
気にはなっている。
ただ、今すぐ困っているわけではない。
そうやって、誠は自分に言い聞かせてきた。
「あなた、朝ご飯できてるわよ」
台所から妻の美紀の声がした。
「分かった。すぐ行く」
誠はネクタイを手に取り、鏡に背を向けた。
そのとき、ふと考えた。
自分は、いつから鏡を見て、自分の年齢を意識するようになったのだろう。
答えは出なかった。
2.いつもの月曜日
会社に着くと、誠はいつものように部下たちへ声をかけた。
午前九時から会議。十時半に取引先との電話。昼食を挟んで午後は資料の確認と、来月の事業計画についての打ち合わせ。
予定表は、今日も隙間なく埋まっていた。
「佐伯部長、この資料なんですが、少し相談してもよろしいですか」
三十代の部下が、分厚いファイルを抱えてやってきた。
「どれ、見せてみろ」
誠は椅子を回し、画面に目を向けた。
問題点を見つけ、修正箇所を指摘し、相手に確認すべき事項を整理する。長年の経験があるから、考えるべき順序は自然と頭に浮かんだ。
「ありがとうございます。助かりました」
部下は安心した表情で戻っていった。
頼られることは嫌いではない。
むしろ、自分の経験が誰かの役に立つことに、誠は誇りを感じていた。
若い頃は、誰よりも早く出社し、遅くまで働いた。分からないことは調べ、失敗すれば原因を考え、次は同じ間違いをしないように努めた。
そうして少しずつ仕事を覚え、責任ある立場を任されるようになった。
家庭を持ってからは、家族のために働くという思いも加わった。
子どもが小さかった頃、誠はよく自分に言い聞かせていた。
今は忙しくても仕方がない。子どもが大きくなれば、もう少し時間に余裕ができる。
その言葉を、何年も繰り返してきた。
気がつけば、子どもは独立し、家には夫婦二人が残った。
仕事も家庭も、誠なりに責任を果たしてきたつもりだった。
それなのに、最近は、ときどき自分が何のためにこんなに急いでいるのか分からなくなる。
そんな思いが頭をよぎっても、誠はすぐに目の前の仕事へ意識を戻した。
考える時間があるなら、仕事を片づけたほうがいい。
それが、長年の習慣だった。
3.昼休みの小さな違和感
午後一時過ぎ、誠はようやく昼食を取ることができた。
社員食堂で定食を注文し、スマートフォンを片手に席へ座る。
画面には、仕事のメールとニュース記事が並んでいた。
食事をしながらメールを確認し、返信を考える。気づけば、箸を動かす手まで急いでいる。
ふと顔を上げると、向かいの席に若い社員が座っていた。
彼は食事を終えると、スマートフォンをしまい、同僚と楽しそうに話し始めた。
「午後、少し歩きませんか。ずっと座ってると身体が固まりますよ」
そんな声が聞こえた。
誠は思わず、自分の腰に手を当てた。
確かに、朝からほとんど椅子に座りっぱなしだった。肩も重い。首を回すと、筋肉がこわばっているような感じがした。
「運動不足かな……」
口に出してみると、妙に現実味があった。
若い頃は、休日になると友人とテニスをしたり、家族と遠出したりしていた。
いつからだろう。休日の予定が、身体を休めることだけになったのは。
もちろん、休息は必要だ。
だが、家で横になり、テレビを見て、気づけば夕方になっている。そんな休日を繰り返しても、月曜日にはまた疲れを感じていた。
何かが足りない。
けれど、それが何なのか、誠には分からなかった。
食事を終えると、彼はいつものようにスマートフォンを手に取り、メールの返信を始めた。
小さな違和感は、忙しさの中に埋もれていった。
4.妻が用意した夕食
その日の帰宅は、午後八時を過ぎていた。
玄関を開けると、煮物の匂いがした。
「おかえりなさい。遅かったわね」
美紀が台所から顔を出した。
「ちょっと打ち合わせが長引いてね」
誠は上着を脱ぎ、ソファに腰を下ろした。
食卓には、焼き魚、野菜のおひたし、味噌汁、炊きたてのご飯が並んでいた。
「今日は魚にしたの。最近、あなた外で食べることが多いでしょう」
「そうだったかな」
「そうよ。先週だって、三日も夕飯はいらないって連絡があったじゃない」
美紀は責めるような口調ではなかった。ただ、淡々と事実を伝えているだけだった。
誠は返事に困った。
確かに、そうだった。
仕事の付き合いもあるし、急な予定変更もある。会社員である以上、仕方のないことだと思っていた。
「仕事だから、どうしてもね」
いつもの言葉が口から出た。
美紀は小さくうなずいた。
「分かってるわ。でもね、私、最近思うの」
「何を?」
「あなた、仕事のことは何でも気にするのに、自分の身体のことは、あまり気にしないでしょう」
誠は箸を止めた。
「そんなことはないよ。健康診断だって受けてるし」
「受けることと、結果をちゃんと見ることは違うんじゃない?」
思いがけない言葉だった。
美紀は続けた。
「この前、健康診断の封筒が机の上に置いてあったでしょう。まだ開けてないみたいだったから」
誠は黙った。
実際、そのとおりだった。
封筒は数日前に届いていた。開けようとは思ったが、仕事の電話が入り、そのまま机の隅に置いていた。
翌日も、その次の日も、封筒のことは頭の片隅にあった。
それでも、開けなかった。
悪い結果が書かれていたら、面倒なことになる。
そんな気持ちが、どこかにあったのかもしれない。
「明日、見てみるよ」
誠はそう答えた。
美紀は、それ以上何も言わなかった。
二人は静かに食事を続けた。
味噌汁は、いつもと同じ味だった。
けれど、その夜の誠には、いつもより少しだけ温かく感じられた。
5.開けられなかった封筒
食事のあと、誠は書斎へ向かった。
机の上には、仕事の資料と郵便物が積まれていた。その隅に、健康診断の結果が入った封筒が置かれている。
誠は椅子に座り、しばらく封筒を見つめた。
たった一枚か二枚の紙だ。
開けたところで、何かがすぐに変わるわけではない。
それなのに、指先がなかなか動かなかった。
仕事の書類なら、どんなに厳しい内容でも読むことができる。数字を確認し、問題点を洗い出し、必要な対策を考える。
ところが、自分自身のこととなると、なぜか後回しにしてしまう。
誠は封筒を開けた。
検査項目が並び、数値と判定が記されている。
昨年と比べて、いくつかの数値が変わっていた。
すぐに重大な病気を意味するわけではない。結果の意味は、医師に確認する必要がある。
それでも、誠は紙を持つ手に少し力が入るのを感じた。
自分は、これまで何をしてきたのだろう。
会社の売上や経費、部下の仕事の進み具合については、細かな数字まで把握してきた。
家族の生活を守るために、将来の資金計画も立ててきた。
それなのに、自分の身体については、どこかで「まだ大丈夫」と考えていた。
大きな問題が起きていないから、きっと大丈夫。
働けているから、大丈夫。
食事ができるから、大丈夫。
その考え方は、本当に正しかったのだろうか。
誠は結果を机の上に置いた。
窓の外には、街の明かりが広がっていた。
明日も朝から仕事がある。会議も、打ち合わせも、部下からの相談も待っている。
何も変わらない一日が始まるはずだった。
けれど、誠の中では、何かが少しずつ変わり始めていた。
6.これからの二十年
寝室に戻ると、美紀は本を読んでいた。
「健康診断、見たの?」
「ああ。少し気になるところがあった。今度、医師に相談してみるよ」
美紀は本を閉じ、誠の顔を見た。
「そう。それがいいと思う」
それだけだった。
心配しているからこそ、余計なことを言わない。美紀には、そんなところがあった。
誠はベッドに腰を下ろした。
「ねえ、あなた」
「ん?」
「定年したら、何をしたい?」
突然の質問だった。
「何って……。少しゆっくりしたいかな」
「それだけ?」
「そうだな。旅行にも行きたいし、今までできなかったこともしてみたい」
口にしてみたものの、具体的な計画は何もなかった。
仕事が一段落したら。
子どもが独立したら。
住宅ローンが終わったら。
誠は、何かが終わるたびに、その先にある時間を楽しもうと思ってきた。
しかし、いざその時間が近づいてみると、何をしたいのか、すぐには答えられない。
美紀は窓の外を見ながら言った。
「私たち、まだまだこれからでしょう?」
「ああ」
「だったら、これからのことも考えたいわね。旅行だって行きたいし、二人で行きたい場所もあるし」
誠は妻の横顔を見た。
若い頃、二人で初めて旅行した日のことを思い出した。
予定を決めず、途中で見つけた小さな店に立ち寄り、知らない町を歩いた。何を食べたか、どこに泊まったか、細かなことはもう覚えていない。
ただ、楽しかったという感覚だけは、今でも残っている。
あの頃は、将来のことを考えながらも、目の前の時間を楽しんでいた。
いつから、自分はそれを忘れてしまったのだろう。
誠は天井を見上げた。
五十五歳。
人生が終わりに近づいた年齢ではない。仕事を続ける時間も、退職後の人生も、まだ残されている。
けれど、これから先も今までと同じように働き続け、身体のことを後回しにしてよいのだろうか。
定年を迎えたとき、自由な時間ができたとしても、その時間を楽しめる自分でいられるだろうか。
その問いに、誠は答えられなかった。
7.小さな決意
翌朝、誠はいつもより十五分早く起きた。
窓を開けると、ひんやりした空気が部屋に入ってきた。
空は明るくなり始めていた。
特別なことをするつもりはなかった。ただ、朝の空気を吸ってみようと思ったのだ。
深く息を吸い、ゆっくり吐く。
それだけで、身体が変わるわけではない。
長年の疲れが消えるわけでも、健康診断の数値が改善するわけでもない。
それでも、誠は久しぶりに、仕事以外のことに意識を向けている自分に気づいた。
「あなた、早いのね」
美紀が起きてきた。
「ちょっと目が覚めてね」
誠は照れくさそうに笑った。
「今日、帰りは遅くなる?」
「今のところ、そこまで遅くならないと思う」
「じゃあ、夕飯は一緒に食べられそうね」
「ああ。なるべく早く帰るよ」
それは、ささやかな約束だった。
守れるかどうかは、まだ分からない。
仕事の都合で予定が変わることもあるだろう。
それでも、誠はその約束を大切にしたいと思った。
朝食を終え、鞄を手に取る。
玄関で靴を履きながら、彼はふと思った。
健康のために、何か特別なことを始めなければならないのだろうか。
高価なものを買うことだろうか。
流行している健康法を試すことだろうか。
それとも、もっと基本的なことなのだろうか。
きちんと食べること。
十分に眠ること。
無理をしすぎないこと。
自分の身体の変化に気づくこと。
そして、家族と過ごす時間を大切にすること。
答えは、まだ見つからない。
ただ、一つだけ分かったことがあった。
自分の健康を考えることは、仕事を諦めることでも、年齢に負けることでもない。
これからの人生を、自分らしく生きるために必要なことなのかもしれない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関を出た誠は、いつもの通勤路を歩き始めた。
景色は何も変わっていない。
駅へ向かう人々も、走り去る車も、いつもの朝と同じだった。
けれど、誠の心には、昨日までとは少し違う問いが残っていた。
自分は、これからの人生をどう生きたいのだろう。
その問いに向き合うことが、五十五歳の佐伯誠にとって、新しい人生の始まりになるとは、このときはまだ知る由もなかった。
今回の気づき
健康は、問題が起きてから考えるものとは限りません。毎日の生活を振り返り、小さな変化に気づくことも、自分の将来を大切にする第一歩です。
次回予告 第2話「いつから、休むことが下手になったのだろう」
休日になっても仕事のことが頭から離れない誠。休んでいるはずなのに疲れが取れないのは、なぜなのか。仕事に責任を持つことと、自分の身体を大切にすること。その両立を考え始めます。

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