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連載小説【健やかに生きるということ】(10/50)

第10話 信州への小さな旅

土曜日の朝、佐伯誠は久しぶりに目覚まし時計を使わずに目を覚ました。

窓の外には、秋の柔らかな光が差し込んでいる。いつもなら、休日であっても仕事の予定や月曜日の会議が頭をよぎる時間だった。

しかし、今日は違った。

寝室の隅には、小さな旅行かばんが二つ並んでいる。

「準備できた?」

台所から妻の美紀の声が聞こえた。

「ああ。忘れ物はないと思う」

「本当に? あなた、昔から旅行のときは仕事の資料を持っていこうとするから」

美紀は笑った。

誠も思わず笑顔になった。

今回の旅行は、特別な目的があるわけではない。高級な宿に泊まるわけでも、観光地をいくつも巡るわけでもない。

ただ、二人で信州を訪ねてみようという、小さな旅だった。

きっかけは、先日の健康食品売り場での会話だった。

健康食品について調べ始めた誠は、情報の多さに戸惑っていた。何を選べばよいのか、価格の違いにはどんな理由があるのか。そんな疑問を抱えていたとき、美紀が言った。

「せっかくだから、自然の多いところへ行ってみない? いつも画面ばかり見て調べているより、実際にその土地を歩いてみたら、何か感じることがあるかもしれないわ」

その言葉が、誠の心に残っていた。

健康について考えることは、何かを買うことだけではない。自分の暮らしを見直すことでもある。

そんな気持ちが、少しずつ芽生えていた。


車を走らせると、街の景色は次第に変わっていった。

建物が少なくなり、遠くに山並みが見えてくる。道路沿いには収穫を終えた畑が広がり、ところどころに赤や黄色に色づいた木々が立っていた。

「きれいね」

助手席の美紀が窓の外を眺めながら言った。

「ああ。こんな景色をゆっくり見るのは久しぶりだ」

「あなた、昔は旅行が好きだったでしょう。子どもが小さい頃は、よく車で出かけたじゃない」

「そうだったな。あの頃は、休みになると家族であちこち行ったものだ」

「最近は、旅行に行っても仕事の電話ばかりだったものね」

美紀の言葉に、誠は少し苦笑した。

確かに、ここ数年の旅行は、休暇というより場所を変えた仕事のようなものだった。移動中もメールを確認し、宿に着いてからもパソコンを開く。家族と一緒にいても、心は仕事から離れていなかった。

「今日は携帯をあまり見ないようにするよ」

「無理しなくてもいいけれど、せっかくだからね」

美紀はそう言って、再び窓の外に目を向けた。

山の向こうに、澄んだ青空が広がっていた。


昼前、二人は小さな町の直売所に立ち寄った。

店内には、地元で採れた野菜や果物、味噌、漬物、そば粉などが並んでいる。どれも派手な包装ではないが、作り手の顔が浮かぶような品物ばかりだった。

「この味噌、地元の大豆を使っているんですって」

美紀が商品を手に取った。

「原材料の表示がシンプルだな」

誠は裏面を確かめた。

大豆、米、食塩。見慣れた原材料が並んでいる。

「こういうものは、どこで、誰が作っているのかが分かると安心感があるわね」

「そうだな。健康食品を調べていても思ったけれど、商品そのものだけを見ていては分からないことが多い」

「作っている人や、その土地のことも大切なのかもしれないわね」

店の人に尋ねると、味噌は地元の小さな製造所で、地域の農家が育てた大豆などを使って仕込んでいるという。

「大量に作るものではないので、数に限りがあるんですよ」

店の人は、そう言って穏やかに笑った。

誠は、その言葉を聞きながら、仕事で関わってきた製品のことを思い出していた。

会社では、効率や生産量、コストを重視することが多い。それは事業を続けるうえで必要なことだ。

けれど、効率だけでは測れない価値もある。

手間をかけること。土地の特徴を生かすこと。作り手が納得できるものを作り続けること。

それらは数字には表れにくいが、商品を支える大切な要素なのかもしれない。

「これ、買って帰ろうか」

美紀が味噌をかごに入れた。

「いいね。家で食べるのが楽しみだ」

誠は、久しぶりに自分から土産を選んだ気がした。


午後、二人は山あいの道を歩いた。

観光地の中心から少し離れると、人影はまばらになった。道の脇には小さな川が流れ、木々の間から鳥の声が聞こえてくる。

誠は歩く速度を落とした。

「こんなに静かなところがあるんだな」

「いつも時間に追われているから、気づかないだけかもしれないわね」

「そうかもしれない」

川のそばにあるベンチに腰を下ろす。

風が頬をなでた。

誠は深く息を吸い込んだ。空気が特別に身体を変えてくれるわけではない。それでも、普段とは違う環境に身を置くことで、気持ちが落ち着いていくのを感じた。

「最近、健康のことを考えるようになってから、いろいろ調べているんだ」

誠が言った。

「うん」

「食事、運動、睡眠。それに健康食品。調べれば調べるほど、何が正しいのか分からなくなることもある」

「そうね。情報が多いものね」

「でも、今日ここに来て思ったんだ。健康のために何かを始めることばかり考えていたけれど、まずは今の生活を見直すことが先なのかもしれない」

美紀は静かにうなずいた。

「無理をして新しいことを増やすより、今ある暮らしを大切にすることも必要よね」

「仕事を頑張ることが、家族のためだと思っていた。でも、家族と過ごす時間を後回しにしていたら、何のために頑張っているのか分からなくなるな」

誠の言葉に、美紀は少し驚いたような顔をした。

「そんなことを考えていたの?」

「ああ。最近、ようやくね」

二人の間に、しばらく沈黙が流れた。

それは気まずい沈黙ではなかった。

言葉にしなくても、同じ景色を見て、同じ風を感じている。その時間が、誠には心地よかった。


帰り道、車の中で美紀が尋ねた。

「今回の旅行、どうだった?」

「よかったよ。観光名所をたくさん回ったわけじゃないけれどね」

「それでも、来てよかった?」

「もちろん。こうして二人でゆっくり話せたことが、一番よかったかもしれない」

誠はハンドルを握りながら、前方に広がる山並みを見つめた。

信州の自然に触れ、地元の人が作る食品に出会い、普段の暮らしを振り返る。

今回の旅で、健康についての答えが見つかったわけではない。

霊芝についても、まだ知っていることは少ない。健康食品を選ぶ基準も、これからもっと学んでいく必要があるだろう。

それでも、一つだけ確かなことがあった。

健康を考えることは、身体のことだけを考えることではない。

誰と時間を過ごすのか。何を食べるのか。どんな場所で、どのように暮らすのか。

そうした日々の選択が、自分の人生を形づくっている。

「また来ようか」

誠が言った。

「そうね。今度は、もう少しゆっくり滞在したいわ」

「次は、この土地の食べ物についても、もっと知りたいな」

「作っている人の話も聞いてみたいわね」

「そうだな。どんな思いで作っているのか、直接聞いてみたい」

美紀は笑顔でうなずいた。

車窓の向こうでは、夕暮れが山の稜線をゆっくりと染め始めていた。

誠は、これからの人生について考えていた。

定年までの時間を、ただ数えるのではなく、その先にどんな暮らしをつくりたいのか。

仕事だけではない。家族だけでもない。自分自身の身体や心、そして自然とのつながりも大切にしながら生きていく。

そのために、今できることから始めればいい。

信州への小さな旅は、誠に大きな答えを与えたわけではなかった。

ただ、これからの人生を考えるための、静かなきっかけを与えてくれた。

そして、彼の中には新しい疑問が生まれていた。

この土地には、昔から人々の暮らしを支えてきた食材や、自然の恵みがまだたくさんあるのではないか。

それらは、どんな人たちの手によって育てられ、受け継がれてきたのだろう。

誠は、次に信州を訪れる理由を、もう一つ見つけた気がした。


今回の気づき

健康は、特別な商品や方法だけで考えるものではない。自然に触れ、人と語らい、日々の暮らしを見直すことも、自分の身体と人生を大切にする一歩になる。

次回予告

第11話 朝の光を浴びるということ

信州から戻った誠は、朝の過ごし方を変えようとする。いつもと同じ一日でも、始まり方を変えれば、暮らしの見え方も変わるのだろうか。


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