「医師が最後に選んだもの」 第2話 患者は治る、でも自分は…
「医師は患者を診る。しかし、自分の身体は誰が診るのだろう。」
「先生、おかげさまで元気になりました。」
診察室で七十代の男性が深く頭を下げた。
肺炎で入院し、退院から三か月。
顔色もよく、歩く足取りもしっかりしている。
「無理は禁物ですよ。」
高橋誠は笑顔でカルテを閉じた。
「睡眠をしっかり取ってください。」
「食事も三食きちんと。」
「適度な運動も続けましょう。」
男性は笑顔で診察室を後にした。
患者が元気になって帰っていく。
その瞬間こそ、医師として最もやりがいを感じる時間だった。
しかし、患者がいなくなると、高橋は椅子にもたれ掛かった。
「ふぅ……。」
わずか数秒。
次の患者が呼ばれる。
「先生、お願いします。」
診療は途切れない。
午前だけで四十人以上。
午後も同じくらい診察する日も珍しくなかった。
昼休み。
看護師が弁当を机へ置く。
「先生、今日はちゃんと食べてくださいね。」
「ありがとう。」
しかし電話が鳴る。
紹介先の病院。
救急搬送。
検査会社。
食べ始めた弁当は、また半分残ったまま冷えてしまった。
その日の夕方。
診察を終えた高橋は階段を上がる途中で足を止めた。
「……。」
少し息が上がる。
「運動不足かな。」
そう思ったが、胸の奥に違和感が残った。
疲れが抜けない。
眠っても回復した感じがしない。
休日も完全には休めない。
「年齢のせい。」
そう片付けようとした。
だが、患者には決してそんな説明はしない。
「原因を一緒に探しましょう。」
いつもそう話している。
その夜。
妻が静かに言った。
「あなた。」
「最近、本当に疲れている顔をしてる。」
「そうかな。」
「笑うことも少なくなった。」
娘も心配そうに見つめる。
「お父さん、学校の健康診断で先生が言ってたよ。」
『体調管理は、自分を大切にすることです。』
高橋は思わず苦笑した。
「耳が痛いな。」
数日後。
大学病院時代の恩師であり、現在は予防医学を研究する教授・村上と再会する機会があった。
学会の休憩時間。
久しぶりの握手を交わす。
「高橋先生。」
「少し痩せましたか?」
「仕事が忙しくて。」
村上教授は穏やかに笑った。
「医師は皆そう言います。」
「でも、その言葉を二十年続ける人も多い。」
コーヒーを飲みながら、村上教授が尋ねた。
「最近、自分の健康診断は受けましたか?」
高橋は少し考えた。
「……昨年です。」
「では、自分の睡眠時間は?」
「五時間くらいでしょうか。」
「運動は?」
「ほとんど。」
「食事は?」
高橋は苦笑した。
「昼は五分ですね。」
教授は静かに言った。
「患者さんなら、あなたは何と指導しますか?」
その瞬間、高橋は言葉を失った。
「医師ほど、自分を後回しにする職業は少ない。」
教授は続けた。
「しかし、医師が健康でなければ、長く患者さんを支えることはできません。」
「医療は、患者さんだけのためではありません。」
「医療者自身も健康であることが、医療の質につながるのです。」
高橋は深くうなずいた。
それは頭では理解していた。
しかし、自分自身に当てはめたことはほとんどなかった。
学会では、新しい薬の発表も行われていた。
最新の治療法。
新しい医療機器。
AI診断。
どれも素晴らしい技術だった。
しかし、その一方で、高橋の目を引いた一つの講演タイトルがあった。
「予防医学と生活習慣の科学」
思わず足を止める。
講演では、生活習慣、栄養、睡眠、運動、ストレス管理が、健康維持に重要な要素として紹介されていた。
「治療だけでは、医療は完成しない。」
講師のその言葉が心に残る。
帰宅後、高橋は書斎で医学雑誌を読み返した。
エビデンスに基づく医療。
それは医師として絶対に欠かせない考え方だ。
一方で、生活習慣や予防への取り組みも、多くの研究が積み重ねられている。
「治療医学」と「予防医学」。
どちらか一方ではなく、両方が必要なのではないか。
そんな考えが少しずつ形になり始めていた。
翌朝。
高橋は珍しく十五分早く家を出た。
病院の周りをゆっくり歩く。
朝の空気を吸い込む。
木々の緑を見る。
たった十五分。
それだけで気持ちが少し軽くなった。
「これくらいなら続けられるかもしれない。」
初めてそう思えた。
診察室へ入ると、看護師が笑顔で言った。
「先生、今日は顔色がいいですね。」
高橋も笑った。
「少し早起きしただけですよ。」
「それだけでも違うんですね。」
その言葉に、高橋は小さくうなずいた。
健康は劇的に変わるものではない。
毎日の小さな積み重ねが未来をつくる。
それは患者だけではなく、医師自身にも当てはまることだった。
そして数日後、高橋は予防医学を専門とする村上教授の研究室を訪ねる。
そこで耳にする「自然治癒力」という言葉が、彼の医療観をさらに大きく変えていくことになる。
──第3話「予防医学との出会い」へ続く。

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