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「医師が最後に選んだもの」 第1話 休めない医師

「患者には休養を勧める。でも、自分は休めなかった。」

午前六時。

まだ街が静かな時間帯に、内科医・高橋誠は白衣へ袖を通した。

四十八歳。

地方都市で二十年以上、地域医療を支えてきた開業医だった。

「先生、おはようございます。」

看護師たちが笑顔で迎える。

「おはよう。」

診療開始は午前八時三十分。

しかし、高橋の一日は、それより二時間以上前から始まっていた。

電子カルテを確認し、検査結果に目を通し、紹介状を書く。

その間にも救急外来から連絡が入る。

「先生、昨夜の患者さんですが……。」

「分かりました。あとで確認します。」

時計を見る。

朝食を食べる時間は、今日もなかった。


午前九時。

待合室はすでに満席だった。

「先生、最近疲れやすくて……。」

七十代の男性が椅子へ座る。

高橋は丁寧に話を聞く。

血圧。

血液検査。

生活習慣。

睡眠時間。

一つずつ確認しながら説明する。

「薬も大切ですが、まず睡眠を確保してください。」

「栄養のバランスも意識しましょう。」

「無理を続けると、身体は必ずサインを出します。」

患者は安心したようにうなずいた。

「ありがとうございます。」

その笑顔を見るたび、高橋は医師になって良かったと思う。


しかし、患者が診察室を出ると、看護師が小さくつぶやいた。

「先生こそ、ちゃんと休んでくださいね。」

高橋は苦笑した。

「そうだね。」

だが、その言葉を実行する時間はなかった。


昼休み。

本来なら一時間ある。

しかし現実は違う。

紹介状の作成。

検査データの確認。

製薬会社との面談。

電話対応。

机の上には冷めた弁当が置かれたままだった。

一口食べたところで呼び出しが入る。

「先生、急患です。」

箸を置き、そのまま診察室へ向かった。


午後の診療も途切れることなく続いた。

風邪。

生活習慣病。

花粉症。

高齢者の慢性疾患。

最近は感染症だけでなく、「なんとなく調子が悪い」という相談も増えている。

「検査では異常ありません。」

そう説明することも少なくなかった。

それでも患者は言う。

「先生、疲れが取れないんです。」

「朝から身体が重いんです。」

高橋は生活習慣の改善を提案する。

食事。

睡眠。

適度な運動。

ストレス管理。

どれも医学的に重要な基本だった。


午後七時。

外来診療が終わっても仕事は終わらない。

カルテ入力。

翌日の準備。

地域の医師会資料。

時計は午後九時を過ぎていた。

看護師が心配そうに声を掛ける。

「先生、今日も遅いですね。」

「あと少しだから。」

その「あと少し」は、一時間後になり、二時間後になることも珍しくなかった。


帰宅すると、妻は食卓を温め直して待っていた。

「お帰りなさい。」

「ただいま。」

「今日も忙しかった?」

「いつも通りだよ。」

高校生の娘はすでに眠っていた。

「最近、一緒に夕飯を食べてないね。」

妻の何気ない一言が胸に刺さる。

「そうだね……。」

医師として患者を支える毎日。

しかし、家族と過ごす時間は少しずつ減っていた。


その夜。

鏡を見ると、自分でも分かるほど疲れた表情が映っていた。

肩は重い。

眠りも浅い。

休日も学会や勉強会で終わることが多い。

「年齢のせいかな。」

そう思いながらも、どこか納得できなかった。


翌日。

大学時代の同期で総合病院勤務の医師・佐々木から電話が入った。

「久しぶりだな。」

「元気か?」

「何とかね。」

少し沈黙が流れる。

そして佐々木が静かに言った。

「この前、人間ドックを受けたんだ。」

「異常はなかった。」

「でも医師から、『働き方を変えないと十年後が心配です』と言われたよ。」

高橋は思わず笑った。

「患者には毎日言ってることなのにな。」

「そうなんだ。」

佐々木も苦笑した。

「患者には生活習慣を説明できる。」

「でも、自分にはできていない。」

その言葉は、高橋の胸に深く響いた。


診療を終えた夜、高橋は医学雑誌を閉じ、窓の外を見つめた。

最新の治療法。

新しい薬。

進歩する医療。

どれも大切だ。

しかし、自分の中に一つの疑問が生まれていた。

「病気を治すことはできても、病気になる前を守ることは、もっと重要なのではないか。」

その考えは、まだ漠然としていた。

しかし、この問いが、高橋の医師人生を大きく変えていくことになる。

数日後、高橋は医療学会で「予防医学」を専門とする一人の教授と出会う。

その出会いが、「治療の医療」から「守る医療」へと考え方を変える第一歩となる。

──第2話「患者は治る、でも自分は…」へ続く。


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